月の裏側 – 第33夜 – リリィと泥

前回のあらすじ
梶のアトリエで、手挽きのコーヒーやアンティーク家具、大きな窓から見える美しい庭の気配から、梶の肌触りを探る由羅。打ち合わせが終わり、少し安堵したところで、由羅は仕事への不安を思わず口にしてしまう。
成美が去った後、静まり返った家の中で、由羅は薄く開いた扉の向こうに、夥しい裸婦画が並ぶ部屋を目にするのだった。

由羅が見るこの世の景色は、いつも説明のつかない何かが潜んでいた。

 

例えば、泥にまみれた着せ替え人形 ーーー

 

由羅がまだ幼い頃の正月のことだった。

自宅に親戚が集まっていた時、由羅は和室の片隅に座り、一人で人形の着せ替え遊びをしていた。

社交的な妹は親戚の大人たちと一緒に過ごすのが好きだったが、由羅は賑やかな場よりも自分だけがいる静かな場所を好んだのだ。

その人形の名を、由羅は「リリィ」と名付けていた。

小さい顔に長い金髪、大人びた眼差しと艶のある口元。
そして、ふくらみかけた胸元や細長い脚は、
由羅の中で、まだ名前もつかない感覚を滲ませていた。

10年後の自分をリリィに重ねながら、様々な服をまとわせる。
その度に由羅は恍惚とした表情を浮かべながら、作り物めいた完璧な身体に触れるのだった。

ーー わたしもいつか、リリィのようになれるのかしら…

すると、突然、
「おい、何こそこそしてんだ!持っているやつを見せろよ!」
と言う荒々しい声が背後から聞こえてきたではないか。

ギョッとして振り返ってみると、二歳年上の従兄弟が仁王立ちしていた。

年に一度しか会わない従兄弟は、前回よりも体格が良くなっていて異様な威圧感だった。

冬でも焼け焦げたような肌
先端が少しとんがっている坊主頭
獲物を狙わんとするような強い眼差し

そんな野蛮な危うさを放つ少年に対し、
着せ替え途中だったリリィは、つるりとした乳房が露わになっていて、繊細きわまりない状態だった。

絶対に見せたくない…!

そう感じた由羅は、とっさに「イヤッ!」と叫ぶように言い放った。

すると次の瞬間、
リリィを抱え込むように背中を丸めていた由羅の身体がぐらりと大きく傾いたかと思うと、
従兄弟は人形をあっという間に取り上げ、窓を開けて外に向かって放ったのだ。

前日は雨が降っていた。

体勢を起こして慌てて外に飛び出すと、裏庭はかなりぬかるんでいて、
心配した通り、リリィは無惨な姿と化していた。

丁寧に櫛でといた長い髪は砂利で絡まり、全身も着せかけていた服も、泥ですっかり汚れていた。

何よりも由羅を絶望させたのは、
その服が大好きな叔母からのプレゼントだったことだ。

ましてや、その日にもらったばかりの 真っ白のウェディングドレスだった。「将来は、お嫁さんになりたい」と話す由羅に、お年玉代わりにと手作りしたものだったのだ。

由羅の無意識層へ触れる
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