月の裏側 – 第4夜 – 浪千鳥と業務命令

前回までのあらすじ
主人公は、正木由羅(まさき ゆら)、40歳、既婚、5歳の息子を持つ一人の女。小さな出版会社で働きながら、生真面目な性格ゆえの葛藤多き日々を過ごしている。子どもの頃から視力に対するトラウマがあり、目に見えるものよりも言葉を信じている由羅。
そんなある日、社内で変わり者と有名な執行役員である梶のアシスタントとして異動辞令を受ける。梶とは半年前にたった一度だけ挨拶を交わした間柄だが、不思議な佇まいがなぜか印象に残っている。
事前の業務説明もなく、初日に指定された待ち合わせ場所は神奈川県箱根町に位置するとある美術館だった。梶はアート担当役員だからだろうか。
前話では、その数日後に森山成美(快活で美しい容姿のライター)から、梶とセックスをしたか、という極めてあけすけな質問を受けていた由羅。

時系列は前後し、梶といよいよ対面する場面が登場する予感の第4夜。異動初日に何があったのか。モデルとなった美術館の描写と共にお楽しみいただきたい。

美術館への訪問は久々だった。いつ来たのかも忘れてしまうくらいに。

仕事で訪問することも、勿論初めてのことだった。

ー 梶さんの到着まで、あと30分…

今後の業務内容は今日このあと梶から聞くことになるのだろう。しかし少なくてもこの場所は何かしら仕事に関係しているはずだ。それならば、どういった場所なのか知る必要があると思い、由羅は調査の対象物のごとく美術館の外観をゆっくり見渡した。

威容堂々たる巨大な風神雷神図が、重厚なガラス窓からその姿を現している。その正面には源泉かけ流しの足湯処が配置され、どうやら足を浸からせながら鑑賞できるようになっているらしい。垣間見える遊び心は、その場所が新旧を調和させた近代的な場所だと彷彿とさせている。

何となく興味をそそられた由羅は梶の指示通り、入館して待つことに決め、チケットを購入した。

くだんの大壁画とガラス窓の間に位置する通路を歩きながら、上を見上げると、静かに胸が高鳴るのを感じた。

ー なんだろう、この感覚は…

感覚を辿るうちに、幼い息子の姿が瞼の裏に映し出された。
あの子の目には、この神々はどのように映るのだろうか… 

由太の蒼く澄み渡った美しい虹彩から臨む光景に想いを馳せる。決して今の自分には見えないであろう美しい光景を。

壁画通路を渡りきると、常設展への入り口が現れた。自動ドアが静かに開くと、蒼白い光に包まれた数々の中国や韓国の陶磁器が闇から浮かび上がるように並んでいる。

悠久の時間をかけて存在するそれらの落ち着き払った姿に、微妙な畏怖の念を感じる。対峙しきれない自己の未熟さを投影しているようで、少しだけ居心地が悪くなる。平日の午前だからだろうか、来館者はまばらで物音もしない。

由羅は普段よりも小さめの歩幅で進みながら、その後に控える日本陶磁器のゾーンも鑑賞した。日本とアジアの古典美術を中心としているが、取り扱う時代や地域は幅広い。様々な嗜好を持つ鑑賞者を楽しませてくれるコレクションのようだ。フロアによって展示品の特性が異なっていることも、物理的な移動と共に違った世界に誘ってくれている。

そして、中間地点に当たる3階の日本絵画エリアまで至ると、花鳥風月が描かれた壮麗な金屏風が眼前に広がる風景のように由羅を出迎えた。

伊藤若冲などが描く錚々たる名画を身体中で感じながら歩を進める。果たしてどのような工程を経て、この作品が出来上がったのか。目という機能だけでは捉えきれない作品の奥深さを感じ取ることが、なんとなく礼儀正しい気がしてしまい気後れする。ましてや視力に自信のない由羅は、言葉で物事を把握する癖がある。

ー こんなのを対象だなんて… 私に何ができるのかしら…

作品の解説を読むものの、正しく味わえている感触がない。由羅は行きのバスに乗っていた時よりもはっきりとした不安感を覚え始めていた。

由羅はそんな気持ちを振り払おうと足を止め、かぶりを小さく振りながら、ため息のような息を一度吐いた。薄暗い空間をなんとなく見回す。ここにいる理由がどこかに落ちていないかを探すような気持ちだった。

すると偶然にも左手にひっそり入り口があることに気づいた。注意深く歩いていないと通り過ぎてしまうくらいだ。小さな案内を見れば、どうやら春画の展示エリアのようだ。

浮世絵も多数展示されているが、春画まで常設されているとは…由羅は春画を鑑賞する機会がこれまであっただろうかと記憶を遡るが、当然ないことを認識し、スマホに目をやる。

あと5分程度で梶が到着する時間だが追加のメールはない。引き上げて入り口がある1階まで下がろうと思い、数歩進むが、すぐに足が止まった。

ー ほんの少しだけ覗いてみようかな… 雰囲気がわかったら、すぐに出ればいいのよ…

来館客まばらな状況は、由羅をいつもより勇敢にさせた。踵を返し、その空間に妙な急ぎ足で入る。時間が限られているという理由ではなく、まるで恥ずかしいものを周りに見られたくないとばかりの動きを見せる己におかしみを感じつつ、そこに足を踏み入れた瞬間は、一転して小さな達成感を覚えた。

暗がりの空間は、およそ6畳ほどでこぢんまりとしていて、4片の壁際にショウケースが配置されていた。淡い白光の演出によって作品たちが怪しげに浮かび上がって見える。由羅以外の人がいない状況に、安堵と不安が混じり合う。

ー 春画は今やアートよ、アート…

そんなことを自分に言い聞かせ、これまでの人生になかった機会と捉えながら、手近なショウケースをそっと覗いてみる。

解説によれば菱川師宣の作品が展示されているようだ。刺繍職人の家系で生まれ育った背景があるせいか、男女の戯れを繊細かつ端正に描いているように見てとれた。

ー うーん、やっぱり気恥ずかしいな…

勢い付いた割に決まりが悪かった自分を恥じると、途端に意識が彷徨い始める。落ち着かないので立ち去ろうと後ろを振り返ると、何やら迫力を感じる作品の気配がした。

ー あれを少し見たら、さっさとここから出るのよ…

source|Internet Museum

すると、目的のショウケースの前に立った瞬間、由羅のあれこれと走り回っていた思考が見事に硬直した。

由羅を衝撃に至らせた春画とは。そして、ついに梶と対面する。
次のページへ

1 2

コメント

コメントする

目次