前回のあらすじ
父を亡くし、母・由紀子と共にジャワ島を訪れた香子は、遺跡でひとりの日本人青年に出会う。柔和な佇まいの裏に歴史への深い洞察と抑えきれぬ憤りを宿すその青年は、由紀子の誘いで共に夕食をとることに。香子の中で、青年の姿は夫の若き日の面影と重なり、淡い好奇心と心のざわめきが静かに波紋を広げていく──。
第20話(バーベルとシルクの肌着)に登場する謎の青年との出会いの旅が描かれる。
香子編は今夜でいったん閉幕。
執筆の背景などについては、instagram にて。

夜闇が静かに足音をたててやってくる。レストランのほのかな灯りが幻想的に空間を演出し、非日常を無音の振動で歌いあげているようだ。
レースが施されたベージュのロングドレスに身を包んだ香子は、生暖かい風が己の頬をなでているのを感じながら、目の前の青年と母が会話している場面を、あたかも夢の中のワンシーンのような心地で眺めていた。
その青年は、名を紺と言った。
紺は高校を卒業するまで都心で生まれ育ったが、地方での生活を希望して、東北地区の大学と大学院へ進学し、目下は科学哲学の分野を研究をしていることを語っていたのだった。(もっとも、現在は休学して世界を旅しているということだったが、その理由を紺は明らかにしていない。)
歳は24で、香子の凡そ20歳年下だった。
かつて香子が成人式で晴れ姿を着ていた当時、まるで接点のなかった赤子と自分が同じ席で食事を共にしている。香子は不思議な思いに駆られた。
「このホテル、遺跡のようですね。」
「えぇ、なんでもボロブドュールを意識した造りなんですって。」
「やっぱり。雰囲気が似ていると感じていました。エントランスはストゥーパのようでしたし。」
「今は暗くなってしまって見えないけれど、エントランスからロビーを抜けた先は、ボロブドュールを遠目で見ることもできるのよ。」
「なるほど、このホテルは遺跡を拝しているんですね…レストランも雰囲気がいいですね。僕が泊まる安宿とはわけが違うなぁ…. 」
紺は自席から内観をぐるりと見渡しながら、関心深げに言った。その所作はまるで恵まれた家で飼われているお行儀の良い犬のようだと香子は思った。
「娘の夫が今回の旅行の全てを手配したのよ。もしかすると貴方と話が合うのかもしれないわね。泰介さんも哲学的だからねぇ。」
ふと、由紀子がそんなことを言って、香子の方へ視線をやった。
「香子さんのご主人が?」
青年はますます関心深げに、香子に視線を送りつける。
「そうね。彼は詩的でもあるわ。」
香子はそう答えて、ようよう紺と目を合わせたが、青年は黙ったままだった。その薄暗がりの中の微妙な表情は、香子自身の感情とも相通じるものがあった。夕方でもない夜でもない境目のような。
その後、3人はジャワの郷土料理を心ゆくまで愉しんだ。
サテ アヤム(鶏肉の串焼き)は、スパイスとピーナッツソースのタレが甘辛く、サテ カンビン(ヤギ肉の串焼き)は、ケチャップ マニス(甘く濃い醤油のようなインドネシアの調味料)を付けて、細かく刻んだ新鮮なコリアンダーやエシャロットと共に頬張った。スパイスでしっかりと味付けされた肉の炭火焼きの芳しい野生的な香りは、赤ワインとの相性が抜群で、香子は舌鼓を打った。
由紀子は、ソト アヤムと呼ばれる鶏肉とスパイスや野菜を煮込んだジャワ島の伝統スープを好んだ。黄金色のスープは半透明で美しく輝いていた。
ナシゴレン(焼飯)は、塩味と香辛料が清涼で、清涼目玉焼きやキュウリや海老せんのつけ合わせが更に食欲をそそる美味しさだった。若者の紺は特にこれを好んでもりもりと食した。
由紀子は紺が美味しそうに勢い良く食べる姿を大いに喜んだ。かつて香子が幼かった頃、息子を産むべく子作りに励んでいた時代があるのだ。男の子はいいわねぇ。食欲があって、元気があるのが一番よ。どんどん食べてね。といったような、さながら子供に対して言うような言葉を紺に向かって何度も言うのだった。
「お母さんはビールがお好きなんですね。香子さんはずっとワインを飲んでる。」
紺がふとそう言うと、酒で饒舌になった由紀子が、
「あら、あたしは香子と違って、ふだんはぜんぜん飲まないのよ。でも、今夜はお父さんの供養だからね。お父さんは日本酒が好きだったのよ。たまに家族旅行に行くと、美味しい地酒を買うために酒蔵までよく行ったものよ。香子はまだ子供だったし、あたしもお酒は強くないから、正直退屈だったけど。でも、振り返ってみれば、全部いい思い出よねぇ。」
と、目を細めながら懐かしそうに語った。
香子はそんな母の横顔を見つめながら、亡き父との思い出を想起した。
父は確かに日本酒が好きだったが、それ以上に日本の伝統文化に敬意を持っていたのだった。だから、旅行と言えばもっぱら国内に限った。たとえ世間がバブル経済に沸きたち、リゾート旅行などに興じようとも。
亡き父との思い出。そして、紺が親娘の部屋にやってくる?
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