月の裏側 – 第15夜 – シガールとホットウィスキー

BACKSIDE BARの臨場感を味わう> music|What’s New / Chet Baker

「今夜は由羅さんの歓迎会ね、梶さん。」

「あぁ、確かにそうだね。偶然の流れだけど、そういうことになるね。」

「私の歓迎会?」

「そうよ、梶さんのアシスタントとして異動してきたでしょう?」

歓迎の場なら感謝の意を述べるのであろうが、今の由羅はとてもそのような気になれなかった。なぜ自分が異動することになり、なぜ今此処にいるのか。かつての上司だった水田や後輩の高橋の顔を思い浮かべ、またあの場に戻れたらと想像する。

バーカウンターの中に立つ成美が耐熱ガラスに入ったホットウィスキーを由羅に差し出さんと細長い腕を伸ばした。グラスから立ち上がる湯気。重厚な木製カウンターの天板が静かにコトッと鳴った。その音から木の微かな息遣いを感じる。

紙袋から焼き菓子の缶を取り出しがさつに置いた時の音は、確かに乾いていて鋭かった。同じ場所で異なる音に触れ、由羅は微妙な恥じらいを覚える。

「それから、今宵は BACKSIDE BAR にもようこそ♩」

成美は自分の手元のホットウィスキーを顔の近くまで上げると乾杯のポーズを取った。隣に座る梶もグラスを少し持ち上げている。

由羅もグラスを持ち上げてみると、琥珀色のウィスキーが揺れて、たちまち芳醇な香りが鼻先をくすぐった。なんとか笑顔を作り、乾杯のポーズを取る。

そもそも由太が生まれてから、お酒をほとんど飲んでいない。
液体を喉に滑らせると、案の定、頭がくらくらとした。身体中が弛緩したような感覚だ。

「リラックスするわねぇ…」一口飲んだ成美が、ほっと小さな溜息をついてニコリとした。

その様子を見て、弛緩した感覚はリラックスかもしれないと客観視する己の存在に気付き、おかしみを感じた。予期せぬ緊張の場面が続いたせいか、感覚が鈍ってしまったのだろうか。リラックスの状態がどういう状態なのかが、もはや分からなくなっている。

こうなればアルコールの力を借りるまでと由羅は一口、二口と飲み進めると、張り詰めた緊張感が徐々に薄らいでいった。バックグラウンドで流れるジャズの音色も前より幾分愉しめているような気がする。

「そういえば…」

成美が何かを思い出したかのように梶に話しかけた。

「なぜ由羅さんを呼んだの?アシスタントはしばらく必要ないって聞いていたから驚いたのよ。」

ー 成美さん、岡田美術館のカフェでも同じことを言っていたわね…

アルコールでぼんやりとした頭で思い出す。
実はあれ以来、由羅も密かにそのことが気になっていたのだ。

続き▶︎ 第16夜 | 業務命令、再び
この物語はフィクションであり、実在の施設・団体とは一切関係ありません。

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