月の裏側 – 第13夜 – モーセとローストビーフ

バーカウンターに近づいてみると、もみあげから顎にかけて髭をたくわえた男がいつの間にかカウンター内に立っていた。口髭も生え揃っていて鼻筋が高く、ブラックの麻素材のシンプルな装いをしているエキゾチックな男だ。

ちりちりとしたクセがかった焦げ茶色の長髪は、後頭部の方にすっきりと纏められたマンバンスタイルだった。綺麗な放物線を描く額は、なぜだか眉間の上のあたりが小さく光っているように感じられる。

その隣に立つように成美がカウンター内に静かに入ると、男の肩に手を置き、耳元で囁くように言った。

「この素敵な人が由羅さんよ。」

バーテンダーのその男はグラスを拭き上げる手を止めて由羅に視線を配ると、こんばんわ、と微笑をたたえて言葉を発した。

由羅は至極控えめに、こんばんわ、と男に小さく会釈をした。素敵な人と評されることに対して違和感を覚えつつ、梶の隣へ緊張気味に着席する。

カウンターの高いスツールは慣れないせいか座り心地が悪く、ここが場違いであることを伝えているようだった。

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「拓海よ。梶さんとあたしを引き合わせた人。」

- あぁ、この人がタクミさん…

成美が拓海を親しげに紹介するのを見つめながら、初めましてと再び会釈をして挨拶する。

- タクミさんはミックスルーツなのかしら…

「彼、お母さんがフランスの人なの。」

心の声を成美に聞かれたようで由羅はぎくりとした。実際、成美は由羅の表情を見て、拓海のバックグランドを推察していることに気が付いてのことだった。

「ニースで生まれたから、名前に漢字の”海”が付いているのよね。あ、ニースって地中海沿いの街よ。で、モーセのように海を割るくらいの男になってほしいから、拓海って漢字を…」

「ねぇ、個人情報を漏らさないでくれる?」

拓海が抑揚のない声で滑らかに成美の言葉を中断させた。どうやらその手元は梶のウィスキーを作っているようだ。

「ふふ、 いいじゃない。」

ー ふふ ー

成美が由羅の知っている笑い方をするので、かえって奇妙な感覚がした。さっき成美が梶と唇を重ねていたのは、現実なのだろうか。見間違いではないのだろうか。いや、いっそのこと夢であって欲しいと願う。

「由羅さん、何飲む?ご飯は食べてきた?これ、メニューよ。」

矢継ぎ早に話しかけてくる成美に若干の疎ましさを感じながら、メニュー表を受け取った。

 

「由羅。」

 

突然、右隣に座る梶が名前を呼ぶので、由羅は慌てて梶のほうを振り向いた。

その赤面した由羅の表情をつぶさに見ながら梶はしみじみとしたように言った。

 

「君はその名の通り、いつも心がゆらゆらと揺れているように見えるね。」

 

由羅が明らかに困惑して絶句しているのを見かねた成美が梶にふいに話しかけた。

「ところで、昨日のバースデーディナーはどうだった?予定通りローストビーフ作ったの?」

「うん。なかなか良かったよ。」

 

ー 何…? いつも心が揺れている、ですって…?どういう意味?

 

これまでの流れで生まれた釈然としない気持ちが由羅の中で益々増幅していく。かと言ってその言葉の真意を聞いたところで、容易に傷付いてしまいそうな予感がする。今や異なる話題が続くのを黙って見守るしかなかった。

「梶さんの作るローストビーフ、食べてみたいな。」

「いつかね。」

「え?普段は肉を食べないじゃない。」

「まぁ、そうだけど、梶さんが作るなら特別よ。」

カウンター内にいる二人のやりとりを眺めながら、梶は軽く頬杖えを付けながら静かに微笑んでいる。由羅はその横顔を見つめながら、この人は一体幾つの表情を持っているのだろうと思う。

メニュー表を両手に持ちながらいい加減に飲むものを決めなくてはと思つつ、何となしに「どなたのお誕生日だったんですか?」と聞いてみる。

すると梶は微笑みを保ちながら由羅に振り向いて言った。

 

「妻のだよ。」

 

ちょうどその瞬間にジャズのレコードが終わり、辺りがしんと静まり返ると、由羅の頭の中も静まり返るのだった。

続き▶︎ 第14夜 |一目惚れの女とランデブー
この物語はフィクションであり、実在の団体とは一切関係ありません。

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