月の裏側 – 第12夜 – BACKSIDE BARと小さなドラゴン

前回のあらすじ
森山成美に会うため、東京・南青山のBACKSIDE BARに行くことを決意した由羅は、表参道駅にほど近い場所で梶と偶然出くわす。由羅もバーに向かう途中だということがわかると、梶は一緒に行くことを提案した。

梶にも会えることを密かに願っていた由羅は、浮かれた気持ちで南青山の街を梶と歩いていた。すると、みゆき通りのヨックモックの前を通った際、かつて由羅が中高校生の頃、母とこの辺りを歩いていたことが急に思い起こされた。そこでよくシガールを買った思い出を何となしに話すと、梶は閉店間際の店へ入り、由羅にシガールを買って渡したのだった。

由羅は梶の後ろ姿を眺めながら、その少し後を連いて行くように歩いていた。

グレーのチェスターコートに包まれ、悠々と歩く梶はなんと優雅だろう。

視線を落とすと、ユーズド感がありつつも清潔そうなジーンズに、きちんと手入れされているスエードのチャッカブーツが目に入った。

よく似合っている。いや、似合っているという以上に、心底着心地良さそうにしている姿が眩しく思える。身につけられているものたちさえも、心地良さそうにしているさまが。

左腕に引っ掛けているヨックモックの紙袋を横目にしながら、それを手渡す梶の笑顔を思い出し、やっぱり変わった人よね… と心の中でそっと呟いた。

もっとも ”変わった人” というのは、由羅にとっては ”自由な人” であることとほとんど同義だった。母親というものになってから、”自由” という概念がすっかり無くなってしまった。母親らしい姿、というものを追い求めているうちに、もうすっかりと。

十字路に差し掛かる時、梶は後ろを振り返り由羅を確認すると、小さく口角を上げて交差点の斜向かいをさりげなく指差した。

由羅が我に返り、梶に承知とばかりに小さく頷く。

ー きっと交差点を渡るのね。

足早に歩き梶の横に着くと丁度信号が青に切り替わったので、二人で交差点を渡って右折した。

青々とした竹が垣根のように植栽された道路脇を肩を並べて歩く。竹の奥に潜む建築物の照明から落ちる道路の影模様が美しい。ふと足を止めて左手の建物を見渡すと、梶も歩を止めた。

「根津美術館。今度ここへ来るといい。素晴らしい古美術品を多く観ることができるよ。」

梶が静かに言った。その声を聴いて、由羅は清涼感があって淀みのない声だと思った。

みゆき通り同様、かつて母とこの通りも歩いたかもしれない。ところが記憶の奥を探ってみても、この辺りを歩いた記憶の欠片は残っていないようだった。決して広い訳でない南青山というエリアの中でもイルミネーションで照らされている場所とそうでない場所があるように。

少し先に進んでみるとエントランスらしきものが見えてきた。由羅が改まったように美術館の外観を確認してみると、暗闇から品格が滲み出るような光景に目を見張った。

Nezu Museum

「あの… ちなみに、こちらに伺うのは業務としてのご指示でしょうか。」

由羅が恐る恐る聞いてみると、

「なぜ?」と梶が不思議そうに尋ねた。

「あ、いえ。」

バツの悪い感覚を覚える。アート分野が業務に紐づく領域と分かりながら、正式な業務命令なのかを確認しないと落ち着かないだなんて。”自由”にはほど遠い現状におかしみを感じる。

まるで社会のルールを知らない小さい子供が、してもいいことやダメなことを大人に聞いてるようではないか。

かといって、大人になれば新しい環境におけるルールをいちいち確認しようとする。周りから逸脱してしまわないようにと。

そもそも社会の常識というものだって、場所によってまちまちなのだ。所詮は今の上司に見合う部下にならなければならないということだろう。

そんな風に由羅が頭の中であれやこれやと考えを巡らせていることを知らずに、梶は何やら新しいことを思案しているらしかった。

「招待制のアートサロンもこの辺りにあるんだ。面白い企画が上がるかもしれないから、それは調整しよう。」

洗練された並木道を歩きながら、二人の間に流れる見えない川のような存在を思う。

いよいよBACKSIDE BARへ
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