月の裏側 – 第10夜 – 金曜日とヴィーガン

19時を過ぎた金曜日の表参道駅構内は人でごった返していた。

食事を摂り気持ちを落ち着かせたいと思っていたが、どこも混んでいるだろうと予感しながら地上へ向かった。

階段に登りながら地上から吹き込むひんやりとした風を受けていると、途端にもの寂しい気持ちに襲われた。それはまるで若い頃の傷口を塞ぐ絆創膏がピリッと剥がれたような感覚で、忘れかけていた小さな痛みを伴った。由太を産んでから夜遊びすることがなかったため、余程せいせいするものと想像していただけに意外だった。

ー 今頃由太はパパとお風呂に入ってるのかな…

もくもくと湯気がこもる温かな風呂場を想像しながら、由羅は10年近くぶりに表参道の街へ足を踏み出した。

行く人はどことなく洒落て見え、表情もなにやら楽しげだ。クリスマスシーズンで彩られた街のせいかもしれない。あるいは金曜日の夜だからかもしれない。今しがた突如訪れたもの寂しさは、地上に出て歩を進める度、不思議にどこかへ消え失せると、由羅はたちまち上機嫌になった。

しばらくして進行方向から雰囲気の良いカフェが暖かい灯りと共に見えてきた。

source|https://mr-farmer.jp/1648/

店頭の看板からヴィーガン専門店と伺えるが、メニューにはロコモコやフライドチキンなどもあり、一見すると普通のカフェのように見える。

ー たまにはこういうのもいいかも…

由羅は思い立ち入店した。

店内はオールドアメリカンを俄かに漂わせる雰囲気で開放感のあるつくりをしていた。思いのほか客席数は多く、店員がすぐに奥へ案内してくれた。
席に至るすがらに見かけたデトックスウォーターバーは、ヘルシー嗜好向けの場であることを印象付けている。

source|https://mr-farmer.jp/1648/

どっしりとした木製のテーブルに案内された由羅は、レトロなソファに腰かけ、一通りメニューを眺めた後、ロコモコをオーダーした。

外食先のメニューにハンバーグ類があると注文してしまう癖がついたのは、由太が生まれてからだ。由太の好物が、いつの間にか由羅の好物にも成り代わっていた。元々は魚介類が好みだったにも関わらず。

ロコモコは広く開口されたボウルに盛り付けられており、ブラウンライスの上にぽってりとしたハンバーグと目玉焼きが乗っていた。それを囲むようにレタスやスプラウトなどの生野菜、さっと油に括らせたナスとスパイシーなトマトソースが添えられている。

プラントベースパテと有機野菜で彩られたロコモコ。目玉焼きに見立てたかぼちゃペーストとジャガイモペーストをつつきながら物珍しい気持ちで食してみると、なんだか愉快に感じられた。

途中、写真を撮っていないことに気が付き、カトラリーを置いてスマホを手に取った。食べかけの食事を撮影することに一瞬戸惑いを感じたが、SNSなどはもっぱら見るだけの由羅にとって、写真は自分用の記録として残すためだ。見栄えは完璧でなくて良いのである。

ところが、実際に手に取ったのは私物のスマホではなく社用のだった。それは全くの無意識だったが、途端に成美からの返信の有無が気になり出し、メールボックスを覗く。

2023年12月8日 19:43

由羅さん、早速来てくれるなんて!
嬉しい!
この時間は空いているから、
ゆっくりおしゃべりしましょ。

ー これは仕事の延長線よ… 少しでもいい記事にしなきゃね…

事実、成美に展覧会の特集記事について、いくつか確認したいことがあった。
写真を撮ることをすっかり放念し、社用のスマホをバッグに戻すと、残りの分を急ぎ気味に食べ進めた。

肌に効能があるらしいキャベツ・レモン・ローズマリーのデトックスウォーターと共に、ロコモコを胃の中に流し込む。
皿が空になったので会計をとテーブルを立った瞬間、腿の上に置いていたハンカチがハラリと床に落ちた。

ー 私ったら、何を急いでるのかしら…

まだ見ぬバーの店内を想像しながら、先を急ぐ自分は一体何がしたいのか、さっぱり訳がわからなかった。

夢の中で現れた焼け爛れたような乳房が頭の隅でちらつき始めたため、慌てて手に取ったハンカチを大雑把にバッグへ押し込んだ。

コートを羽織り会計を済ませて店を出る。ドア前の小さな階段を下がり歩道に出ると、吐く息が白い。1時間もない滞在だったが、その間でも気温が一段と下がったようだ。

さて行かんとばかりに冷たい外気を大きく吸った瞬間、歩を進める足を止めてこちらに視線を送る人影が視界の片隅に見えた。

「驚いたな。こんな道端で会うなんて。」

声の方向に顔を向けると、美術館で会った時と同じチェスターコートに身を包んだ梶が、由羅の僅かすぐそこで佇んでいる。

「梶さん…!?」

大きく吸い込んでいた空気が一度きりに吐き出され、白い霧が由羅の眼前に立ち込めた。

梶は由羅の背後に立てかけてある店頭の看板をチラリと見遣った後、再び由羅に視線を戻すと、小さな笑みを浮かべて言った。

「で、偽物の肉はどうだった?」

続き▶︎ 第11夜 | 南青山と過去の記憶
この物語はフィクションであり、実在の団体とは一切関係ありません。

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