月の裏側 – 第10夜 – 金曜日とヴィーガン

前回までのあらすじ
主人公は、正木由羅、40歳、既婚、5歳の息子を持つ一人の女。小さな出版会社で働きながら、生真面目な性格ゆえの葛藤多き日々を過ごしていた。そんなある日、社内で変わり者と有名な執行役員である梶のアシスタントとして異動辞令を受ける。
異動初日に梶と会い、独特の雰囲気に翻弄される由羅。その数日後、ライターの森山成美と数ヶ月後に迫る美術館の展覧会に関する特集記事について打ち合わせをしていると、成美が由羅と同級生であることや、成美のブログの記事から胸元に広範囲の火傷痕を負った過去などを知る。さらに、成美が梶に頼まれ胸元を見せたようなことを仄めかすため、由羅は大いに動揺する。
その2日後、普段見ることのない官能的でありつつ恐怖の夢を見てうなされながら起床した由羅は、夢の中で成美の存在を感じたため、彼女に会いに東京・南青山のBACKSIDE BARへ行くことを決意する。

東京メトロに揺られながらスマホで成美のメールに返信を打とうとするが、どうも文章が定まらない。

もしかすると今夜は梶さんも来るかも

この一文が明らかに由羅を動揺させていた。
動揺したのは、梶に会える、と瞬時に心が沸き立った気がしたからだ。

しかしバーの最寄駅を調べて表参道駅とわかった時は、煌びやかな表参道と梶や成美の姿が重なり、気後れしそうになった。

覗いていたスマホから顔を上げてみると、地下鉄の窓に自分の姿が視界に入った。

肩よりも少し下まで髪が伸びていて、吊り革を掴む姿が少し疲れて見える、ごく平凡な、40歳の子持ちの女。
客観的にそんな姿に見えた。

毛量が多く、コシもクセもない毛質は昔と変わらなかったが、ほんの数本だけ白髪が混じるようになったのは最近のことだ。
パーマは20代前半の若い頃に2回ほど挑戦したが、元来の直毛質のせいで長くは持たず、金銭面から勿体無いと感じてそれっきりだった。

ー そういえば、美容院へ最後に行ったのはいつだっけ…

思い返してみると、由太の七五三のため家族で写真撮影して以来4ヶ月近く経っていた。
子供のイベントでもない限りは、今や着飾る機会もない。

そのため頻繁に美容院に行かなくても、誤魔化しの効く無難なヘアスタイルとカラーリングを選ぶようになったのだった。

服装もそうだ。
好きな服は自分に似合う服とは限らないと30代に差しかかる頃に悟って以来、年相応の無難なものを選ぶようになった。

由羅が中学生の頃、ファッション業界では吉川ひなののような顔の小さくて手足の長いティーンズ達が席巻していて少なからず影響を受けた。

中肉中背である自分にモデルが着る服が似合うわけもないことは、当時若過ぎた由羅に知るよしもなく、同じ服を着ているのにも関わらず鏡に映る冴えない己の姿に唖然としたものだった。

ベージュのシンプルなウールコート、ざっくりとしたニット、マキシ丈のスカート、40デニールのブラックタイツとバレエシューズに身を包んだ由羅は、今や無難に加えて、なるべく体型が隠れる服装を選んでいる。

ー 無理をしないファッション。これはこれで気に入っているんだけどね…

20年前にはなかった贅肉の存在を認識して、思わず、はぁ…と小さなため息をついた。

2023年12月8日 19:10

成美さん

お疲れさまです。
先ほど仕事を切り上げて、表参道駅に向かっています。
軽く食事を摂ってから伺いますね。
20時過ぎになると思います。


梶さんにもお会い出来たら嬉しいです。

正木

梶についてどのように触れたら良いか結局わからないままだったが、埒が明かないため、メールを返信した。

そして窓に映る自分の姿を、再びまじまじと見つめた。

長身でスラリとした体型の成美が左隣に立っているのを想像してみる。
それから凛凛とした佇まいの梶が右隣に立っているのも。
そして案の定、またも気後れしそうになる。

梶に会いたい気持ちと真逆の気持ちが同居する心境は、明らかに自信の無さの表れだった。しかし、明らかだったのは自信が無いことであり、その理由は漠然としたものだった。

西陽の差すカフェテリアで高橋に言われた言葉が、どこからともなく聞こえてくる。

「相手が役員だろうと、今やってんのが不慣れな仕事であろうと、梶さんと対等だって意識を持ったほうがいいと思いますよ。」

ー バカみたい。わざわざ自分を傷つけているようなものよ。

思い煩う心を制するように両目を固く瞑ると、表参道駅に到着するアナウンスが流れた。

表参道の街でまさかの…
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