月の裏側 – 第9夜 – 後輩はブラックコーヒー

由羅の母はしつけや作法に厳しく、特に目上や年配者に対しては、言葉使いなどの礼儀を重んじる人だった。

そんな母の元で教育を受けてきた由羅にとっては、役員の直属部下に配属され、未経験分野の業務を担当し始めた今、上司に失礼のないように振る舞うのは至極当たり前なことだった。

しかし、それにしても梶のことを知らなさ過ぎる。それは勿論、自覚していた。

梶とは1週間前に会って以来、ほとんど会話することなく、簡素で事務的なメールのやりとりをしている。アシスタントだからといって梶のスケジュールを調整したり、代行で何かを手配したりすることもないので、梶の嗜好のようなものもわからない。業務指示は至ってシンプルで、想像を掻き立たせる材料もない。

会った時はあんなにも強烈な印象を残す梶だっただけに、今の関係性がひどく無味乾燥に思えた。

「梶さんに対して対等の意識って…  私には難しいわ。」

出来上がったカフェラテを手に持ち、居直るように言った。

高橋は表情を変えることもないかわりに、ラペールシュの角砂糖をひとつ取って、由羅に無言で差し出した。

カフェラテに必ず入れる角砂糖のことを忘れて、その場から立ち去ろうとしていたことに気付き、自分が動揺していることを知る。

「あ… ありがとう。」

由羅が礼を述べると、高橋はごくさり気ない会釈をした。そして、コーヒーマシンのブレンドのボタンを押すと、再び肩を揉むような仕草をしながら背中を向けた。

その後ろ姿を見ながら、高橋のコーヒーはいつでもブラックだということを知る己を認識する。

ー このまま簡素なメールのやりとりだけで仕事していたら、梶さんのことを知ることも理解することもできないだろうな…

由羅は自席まで戻り着席すると、物思いに耽けるかのように角砂糖の包装をゆっくり破り、カップにそっと沈ませた。

どの部署にも属しない由羅の現在の席は、総務部から離れた場所に位置しており、息子を出産する前に在籍していた広報部に近いエリアに位置している。しかし、当時の戦友は転職や異動をしてもういない。

今朝、太一に帰宅が遅くなることを伝えたら、今の部署は夢でうなされるくらい忙しいのか、と言われた。

その言葉は由羅の体調を案じるというよりも、これから夜のワンオペ育児を頼まれることが増えるのかどうかという探りの質問に聞こえた。

心はざわついたが、それでも今夜、太一がワンオペを受けて立つことが有り難かった。

普段は由羅が育時短勤務をしているため、これまで夜に自宅を不在にすることは滅多になかった。

育児や家事は性別に関係なくできるものというのに、出産という女性特有のライフイベントを経由することで、その延長線である家事・育児が由羅にほとんど属人化してしまったのだった。もっと夫を巻き込めばよかった幾度となく後悔もしたが、その状況を選択したのも自分であることは確かだった。

異動の内示の際、水田に言われた ” キャリアアップ ”という言葉に悪寒がしたのをふと思い出し、カフェラテを口にする。

2023年12月8日 14:16

成美さん

業務外のご連絡ですみません。
金曜日ですね。
今夜はバーにお手伝いにいらっしゃいますか?

正木

由羅はメールを打つと、成美からもらったバーのショップカードを引き出しから取り出し、デスクに置いて、まじまじと見つめた。

BACKSIDE BAR
東京都​​港区南青山5 -×- 27

南青山界隈は友人の結婚式以来、10年近くも訪れることのなかった街だ。

そのバーにいる自分を想像してみようとしばらく目を閉じてみるが、どうもうまくいかない。

今夜成美がいないのなら、適当な時間に仕事を切り上げて帰宅しよう。そんなことを思いながら瞼を開けると、早速成美からメールが届いていて少し驚いた。

2023年12月8日 14:18

由羅さんから仕事以外の話だなんて!
嬉しい!

大体7時頃にはいると思うわ
来れそう?

もしかすると今夜は梶さんも来るかも

 

続き▶︎ 第10夜 | 金曜日とヴィーガン

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