月の裏側 – 第9夜 – 後輩はブラックコーヒー

前回までのあらすじ
主人公は、正木由羅、40歳、既婚、5歳の息子を持つ一人の女。小さな出版会社で働きながら、生真面目な性格ゆえの葛藤多き日々を過ごしていた。そんなある日、社内で変わり者と有名な執行役員である梶のアシスタントとして異動辞令を受ける。
異動初日に梶と会い、独特の雰囲気に翻弄される由羅。その数日後、ライターの森山成美と数ヶ月後に迫る美術館の展覧会に関する特集記事について打ち合わせをしていると、成美が由羅と同級生であることや、成美のブログの記事から胸元に広範囲の火傷痕を負った過去などを知る。さらに、成美が梶に頼まれ胸元を見せたようなことを仄めかすため、由羅は大いに動揺する。
その2日後、普段見ることのない官能的でありつつ恐怖の夢を見てうなされながら起床した由羅。夢の中で成美の存在を感じたせいか、成美から手渡されたバーのショップカードとブログの記事が脳裏に浮かぶと、太一に今夜仕事で帰宅が遅くなるが良いかと聞く。そのバーは成美が梶と出会ったきっかけとなるバーだった。

ランチタイムがピークアウトした昼下がり。社内のカフェテリアには、ほとんど人はおらず、西陽が窓から微かに差し込んでいた。

業務用にしてはひどく小ぶりのコーヒーマシンが、豆を懸命に粉砕している。

その音に重なるように男の声がした。

「正木さんって、梶さんと会ってるんすか?」

由羅が斜め後ろを振り返ると、高橋が順番待ちしているかのように立っていた。

12月の総務部は年末の恒例イベントである ”全社クリーンオフィス” を取り仕切っていて繁忙期だ。かつては全社の年賀状も取り纏めしていたが数年前に廃止になったため、今はそれでも随分楽になった。

当初の過酷さを知る由羅は、毎年この時期になると、ダルいなどと弱音を吐く高橋という若者のことが理解できずに苦しんでいた。

事実、高橋は片手で肩を揉んだりして、たった今もやはり”ダル”そうな表情をしている。

しかし、その相変わらずの様子に密かに安心する。彼の指導役としての肩の荷が降りたからだろうか。それとも単純に異動して高橋と離れたからだろうか。

「うん、異動の初日に1度お会いしたよ。」

「1度だけ?発令から1週間で?アシスタントってボスに会わなくても仕事できるんですか?」

思わぬことを聞かれ、由羅は少々たじろいだ。

「高橋くんだって、私が座ってた席に来た後輩の子と直接会話しないでほとんどチャットでやりとりしているようじゃない。すぐ隣なのに。」

「それは会話の記録を残した方が、お互いのためなんでそうしてるんすよ。でも、役員の秘書とかアシスタントって、ボスの近くの席に座って、甲斐甲斐しくお世話してるのかと。」

「”甲斐甲斐しくお世話”って… なんだか嫌味に聞こえるわね。ご心配なく。なんとかなってるわ。それに、今時フルリモートの在宅秘書とか、オンラインアシスタントとか、普通でしょ。」

高橋は無表情ながら、そんなことは知っている、といわんばかりに肩をすくめた。

「そもそも梶さんはどこで仕事してるんすか?正木さんだけオフィスに来てるけど。」

「さぁ…普段は鎌倉っておっしゃっていたけど…。本当は私も在宅できるんだけど、なんだか体が出社に慣れてしまっているのよね。」

「ふーん… つか、梶さんにいつもそんな尊敬語使ってるんすか? ” おっしゃる ” とか。」

「え… だって上司だし当たり前じゃない。高橋くんこそ水田部長にもう少し丁寧な口調で会話した方がいいと思うけど?」

「つまり、先輩の正木さんに対しても?まぁ、正木さんは総務から出ちゃったけど。」

「…。そうね。高橋くんにとって、私は今や先輩でも何でもない人ってことね。」

主旨をつかむことのできない会話。そして何故だか棘を感じる空気にいたたまれなくなると、由羅は視線をコーヒーマシンに戻し、カフェラテが早く出来上がることを願った。

「相手が役員だろうと、今やってんのが不慣れな仕事であろうと、梶さんと対等だって意識を持ったほうがいいと思いますよ。」

背後からなおも聴こえてくる声の主から説教を受けているような感覚がして、由羅はにわかに苛立った。

由羅が苛立つ理由とは…
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