月の裏側 – 第6夜 – 開化亭と同級生

前回までのあらすじ
主人公は、正木由羅、40歳、既婚、5歳の息子を持つ一人の女。小さな出版会社の総務部で働きながら、生真面目な性格ゆえの葛藤多き日々を過ごしていた。そんある日、社内で変わり者と有名な執行役員である梶のアシスタントとして異動辞令を受ける。
異動初日に指定された待ち合わせ場所は神奈川県箱根町に位置するとある美術館だった。半年前にたった一度だけ挨拶を交わした間柄の梶と美術館で再会するが、その場所は、あろうことか館内にある春画の展示エリアだった。北斎春画最高傑作と謳われる『浪千鳥』の前で、「”考えないで、感じること”を意識するように」との梶の声掛けと共に密着するように手を握られ、完璧に動揺する由羅。帰宅後は、本能のまま生きる幼い息子の姿と自分の姿を対比させながら、複雑な心境となる。
第6夜は、第2夜で登場したライターの森山成美と出会った日(梶と会った5日後)に遡る。美術館の足湯処以降、由羅と成美はどのように過ごしたのか。

source|https://www.okada-museum.com/facilities/restaurant_kaikatei/

美術館の敷地内に併設された開化亭は、平日のせいか空いていた。

昭和初期に建築された日本家屋は程よく改装されており、カウンター席はゆったりとした大きいコの字型で掘り炬燵式になっていた。由羅と成美以外には、一組の老夫婦だけが斜向かいに着席している。

「パウンドケーキが美味しいらしいの。食べましょうよ。」

ひと通り仕事の話を終えると、成美が軽やかに言った。

時刻はまもなく午後3時を回ろうとしているが、あと一時間程度であれば、保育園のお迎えにはなんとか間に合いそうなことを確認する。

source|https://www.okada-museum.com/facilities/restaurant_kaikatei/

「そうですね。そうしましょうか。」

ー 社外の相手先とケーキか…

由羅は同意しながらも、これまで経験したことのなかった状況をいちいち噛み締める。出版社でありながら、長らくコーポレート部門勤務だったため、違和感のような、潜在的に抱いていた羨望感のような心境も一緒に。

足湯処を出た後、美術館内の一室で学芸員兼広報担当者との打ち合わせに成美と出席した。数ヶ月後に控える展覧会が、由羅の勤める出版社の雑誌媒体『ミモザ』で特集されることが決まっていたからだ。

成美はフリーのアートライターとして活動していて、その記事を担当することになっていた。そのため開化亭に場所を移して、二人で事後打ち合わせをしていたのだった。

この仕事については、しばらく前に梶に声をかけられたのだと言う。

source|https://www.okada-museum.com/facilities/restaurant_kaikatei/

5日前、梶とここで食事をとったことを由羅は思い返していた。その際はカウンター席ではなく、趣きある縁側が印象的な座敷の広間だった。

成美はこの店に初めて訪れたらしいことがわかると、あの座敷席が何か特別なもののような気がしてくるのはどう言うわけだろうか。成美に対してうっすらとした優越感が奥底で湧き上がってきている感覚を微かに覚え、戸惑う。

あの日、春画の展示エリアを出た後、梶にその他のエリアも一通り案内された。その後は美術館の関係各位に由羅をアシスタントとして紹介しがてらの打ち合わせをし、それが終わると梶に昼食に誘われ、開化亭の座敷で向かい合って、うどんを食したのだった。

うどんは大きく開口された黒く美しい陶器に盛られていて、温かく、こしがあり、素朴で上品な味わいがした。

その実、意識のほとんどは梶に向けられていたため、落ち着いて食すことは困難だった。というよりも、それは苦痛でもあった。うどんを啜る姿を見たり、見られたりすることも。

それだけ梶の目元も口元も、一挙一動の全てがひどく気になったのだ。

成美が梶との関係性に触れる…?
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