月の裏側 – 第5夜 – 汚れた手と本能

source|Internet Museum

”考えないで、感じること” を意識するように。
これは、業務命令です。

梶の声は鼓膜をするりと通りぬけ、由羅の身体を構成する全てのものを激しく振動させている。

知覚が鋭敏さを取り戻し、密着する梶の香りを脳が着々と記憶し始める。

今まで触れたことのない手の感触を、接する皮膚から味わい尽くそうとする。

この状態で少しでも右側に視線を移そうものなら、梶の存在に完全に飲み込まれてしまいそうだ。

ー どうしよう… 

葛飾北斎が描く春画から放たれるエネルギーは、由羅の心境を益々掻き乱している。

硬直する肉体は、全ての意識が五感に注がれてしまい、”動作する”という機能すら忘れているかのようだ。

source|葛飾北斎『浪千鳥

繋いでいた手を静かに離した梶は、ゆっくりと由羅の背後に回り、両手を由羅の両肩に触れながら耳元で囁いた。

「いいね、その調子。暁闇の荒野にたった二人でいる気分だ。」

無音の空間に小さなヒビが入ったような感覚がした。

そのヒビから放射線状に月明かりのような蒼白い光が由羅の目の前を照らしたかと思うと、その瞬間、あの日の由太の姿が突然脳裏に浮かんできた。

本能を抑制され、地べたにへたり込み、もみじの葉のような掌を歩道につく幼児の悲しそうな後ろ姿。

その晩、由羅は添い寝をしながら息子の寝かしつけを終えると、梶と過ごした時間をベッドの上で静かに思い返していた。

追憶の中で見えるのは一連の流れではなく、水辺に戯れる千鳥の一羽一羽が、まるで時間の破片のごとく飛び回るように濃淡をつけながらフラッシュバックしている様子だった。

隣に眠る由太のか細い寝息を聞いていると次第にたまらなくなり、小さな手を探し当て、この場所から離れまいとするかのようにしっかりと握りしめる。

あの朝と同じように、華奢で柔らかく、ほんのりと温かい掌だった。

隣の部屋から夫のいびきが、かすかに聞こえてくる。

続き▶︎ 第6夜 | 開化亭と同級生
この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

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