月の裏側 – 第5夜 – 汚れた手と本能

前回までのあらすじ
主人公は、正木由羅、40歳、既婚、5歳の息子を持つ一人の女。小さな出版会社で働きながら、生真面目な性格ゆえの葛藤多き日々を過ごしている。子どもの頃から視力に対するトラウマがあり、目に見えるものよりも言葉を信じている由羅。
そんなある日、社内で変わり者と有名な執行役員である梶のアシスタントとして異動辞令を受ける。

梶はアート担当役員だからだろうか、事前の業務説明もなく、初日に指定された待ち合わせ場所は神奈川県箱根町に位置するとある美術館だった。
前話では、半年前にたった一度だけ挨拶を交わした間柄の梶と美術館でついに再会するが、その場所は、あろうことか館内にある春画の展示エリアだった。北斎春画最高傑作と謳われる『浪千鳥』の前で、「”考えないで、感じること”を意識するように」との梶の声掛けと共に密着するように手を握られ、完璧に動揺する由羅。

第5夜の導入は、由羅の過去の記憶の断片から。春画エリアでの出来事を中間点に、前後の由羅の心理状態が展開される。

ある朝、由羅は由太と手を繋いで足早に歩いていた。

5歳の掌は華奢で柔らかく、ほんのりと温かい。

それは保育園へ急ぐ道すがらだった。朝一番に大事な打ち合わせがあるので、由羅は普段より張り詰めていた。

そんな折、どこかの子供が落としたであろうミニカーが歩道脇の植樹帯に転がっているのを見つけ、由太が足を止める。

「ゆうちゃん、行くよ。お母さんは急いでるの。」

ありがちな展開に由羅はうんざりしつつも、極力感情を抑えながら呼びかける。ただですら由太は寝起きが悪く、自宅を出るまでにも苦戦しているのである。

しかしその想いに反して、由太は繋いでいた手を離してミニカーに走り寄る。

土で汚れてしまっているそれを由太は迷うことなく手に取ろうと腕を伸ばすと、由羅は慌てて走り寄り、息子を抑制すべくその細い腕を強く引っ張った。

「ダメ!手が汚れるよ!」

いたっ!という声と同時に由太が尻もちを付くと、その場で静かに俯いた。

掴んだ腕をパッと離した瞬間、小さな掌が地べたについているのを見て由羅は戸惑う。

腕を伸ばす先がミニカーであることが本能だとしたら、己のとった行動は一体なんなのか。

背中を丸めた由太の後ろ姿を虚ろに見つめる。

場面は再び春画エリアに…
次のページへ

1 2

コメント

コメントする

目次