月の裏側 – 第4夜 – 浪千鳥と業務命令

source|葛飾北斎『浪千鳥』

そこには、圧倒的な生命の漲りが存在していた。

肉眼ではこの世の森羅万象を見ることができないとかつて悟った由羅1だったが、いま目の前でその全てを目撃しているような衝撃だった。

 
 

「葛飾北斎、という名前。彼が40代以降につけた画号なんですよ。」

 
 

突然、背後から男の声が聞こえ、由羅は我に返った。普段は人の気配や物音に敏感に反応するのだが、全く気が付かなかったのはその絵にしばらくの間、釘付けになってしまっていたからだろう。

男の声は穏やかな声で続けて言った。

「しかも、北斎春画の傑作とも謳われる『浪千鳥』は、彼が70歳頃に描いた。」

ー なみちどり…? あぁ、この作品のこと…

その時点で初めて作品名を認識すると、男の声が自分に向かって話していることを確信した。

ー ど、どうしよう… 行かなきゃ…

思いに反して、由羅の身体は絵を直視し続けた状態のまま動けずにいる。すると男は由羅の右隣にゆったりとした足取りで近づいてきた。鼓動が高まり、息が詰まる。

「そして90歳でこの世を去った。江戸時代にしては、異例の長生きです。」

懐かしい声が聞こえたようで、一瞬時が止まったように感じた。

「自分の人生もこれからだと思いませんか?正木由羅さん。」

ー え…? まさか……

微動だにしなかった身体は、己の名を呼ばれたことにより呪術が解かれたかのようだった。恐る恐る傍に顔を向けると、男の視線は『浪千鳥』に向いていた。想像していたよりも背は高く、少し見上げるようにその横顔を確認する。すると男も由羅に視線を移し、端正な微笑を浮かべて、静かに口を開いた。

「梶です。待たせたね。ごめん。」

ー で、出た…  梶 泰介…

無音の空間は由羅の心の声を拾ってしまいそうな気がして、慌てて返答する。

「あ、いえ、そんな、だ、大丈夫です…」

梶はおよそ半年前に初めてオフィスで会った時と同様、ウェリントンスタイルの眼鏡をかけていた。しかし当時と季節は異なり、今日はグレーのチェスターコートを羽織っている。暗がりながら、コートは上質ながらもほどよくくたびれているのが見てとれる。季節柄だろうか、場所柄だろうか、初夏の頃の梶の雰囲気よりも落ち着いているように感じた。

それにしても、たった一度しか会ったことのない自分のことを覚えていたということか。鼓動が更に高まる。

「この作品を見ていた時の君の雰囲気、とてもよかったよ。」

梶がそのように言うので、由羅が再び『浪千鳥』に視線を戻すと、恥ずかしさで思わず赤面してしまった。上司と春画の前で会話するとは、夢にも思わない事態だった。

ー もぅ… どう答えたらいいのよ…

完璧に動揺する由羅を尻目に、梶は続ける。

「これまでコーポレート部門で思考ばかりの業務だったと思う。でも…」

右隣に立つ梶は長い左腕を伸ばしたかと思うと、それはあっと言う間に由羅の背後を通り越し、由羅の左手を大きな手の平で優しく包んだ。

「これからは、”考えないで、感じること”を意識するように。これは、業務命令です。」

ー え… この状況は、なに…?

眼前を春画にして、ほとんど密着しながら男に手を握られている状況は、もはや赤面どころの騒ぎではなかった

続き▶︎ 第5夜 | 汚された手と本能
この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

  1. 第3夜参照|由羅の視力にまつわるトラウマ ↩︎
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