月の裏側 – 第30夜 – 澄明と翳り


ー 成美さんも既婚者ですって…?

自分とは違って、溌剌として瑞々しく、いい意味で生活感のない成美のことを、すっかり独身だと思い込んでいた。

ー しかも、恋愛感情のない相手とセックスができるの?

唖然とする由羅をよそに、成美は続けた。

「パートナーは今、イギリスに住んでいるわ。彼のことを尊敬してるし、愛してる。
でもね、今のあたしには日本での暮らしが必要だった。だから、1年前にひとりで帰ってきたのよ。

そうしたら、拓海とBACKSIDE BAR に出会ったの。以来、あたしにとって彼らは大切な人と空間になったわ。

パートナーも、日本に来るたびにバーに立ち寄るの。拓海とあたしの関係性は、彼にとっても安心材料なのよ。」

さっきまで釣り上がっていた由羅の目は、怒りの色から途端に困惑の色に移り変わる。

由羅はとうとう言葉を失い、視線を路地の石畳へ落とした。足元に積もる紅と橙の落ち葉が、静かに風に揺れている。その風が、どこからともなくすり抜けて、落ち葉を踊らせた。

成美は由羅の目をじっと見つめていた。 優しさを湛えた瞳は揺るがず、ただ静かに、状況の重さを受け止めている。

「日本では『浮気』とか『不倫』とか、一言でくくられちゃうけど、世界にはいろんな愛の形を言葉にしている人がいるわ。
でも、あたしはそこに興味はないの。だって、大事なのは、関係の中にある本質だから。」

成美の発する言葉は、遠い異国の言葉のようにぼんやりと目の前に漂うばかりだった。意味が霞んで、触れそうで触れられない霧のように。

沈黙の間に、また風が吹き、落ち葉がひとひらふたりの間に舞い落ちた。
由羅はゆっくりと目を上げ、成美の顔を見つめ返した。

「…どうして、そんなに……平然としていられるんですか?」

その問いは、怒りでも責めでもなく、むしろ呟くように、由羅の戸惑いを映し出していた。

成美は穏やかな微笑みで答える。

「ずっと色々な葛藤と向き合ってきたからよ。」

冬の朝の光は透明で冷たく澄み渡り、紅葉を静かに照らしていた。成美の瞳は煌めく光を宿し、揺るがぬ強さをたたえている。

一方、由羅の胸には言葉にできない何かが、風に吹かれる落ち葉のように揺れていた。

続きは、9月8日 皆既月食の日 更新予定
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この物語はフィクションであり、実在の施設・団体とは一切関係ありません。

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