月の裏側 – 第30夜 – 澄明と翳り

前回のあらすじ
北鎌倉駅西口で待ち合わせた由羅と成美は、梶のアトリエへ向かう。
由羅は道案内をする成美の様子に苛立ちと嫉妬を覚え、抑えきれず梶との関係を問いかける。
その胸中は落胆と混乱、そして梶への揺れる想いが渦巻いていた。

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振り返った成美は、好意に満ちた笑顔をたたえていた。それはあたかも聖母のような、汚れなき眼差しだった。

だからこそ、由羅は大いに戸惑った。あのような質問には、到底結びつかない表情ではないか。

そして、成美は平然と言ったのだった。

「えぇ、あるわよ。1度セックスした。」

あまりに判然とした、直線的な答え方だった。
まるで「一度だけ食事を共にしたの」とでも言うような。

途端に、強烈な違和感と正義感のようなものに駆られた由羅は、

「梶さんは既婚者ですよ? 成美さんにとって、そういうのは普通のことなんですか?」

と、問いただすように言った。

すると、成美は柔和な笑みを浮かべたまま、淀みなく答えたのだった。

「セックスの本質は根源的な愛で、本来、崇高なものよ。その瞬間は、家族とか、恋人とか、友人とか、会社の同僚とか、そういう“記号的”なものから解放された世界に、身を置いているの。」

直視された成美の瞳の奥から、由羅の記憶が静かに浮かび上がる。

ー 記号的なものから解放された世界 ー

成美のブログのタイトルは、確か「mudai(無題)」だった。

そして、岡田美術館のカフェで彼女が語っていた言葉…

「何かにいちいちタイトルを付けるのがイヤなの。記号的なものがね。」

第7夜 参照

あの時は、職業の肩書きのことを語っていたから、少なからず共感できた。
とは言っても、まさかセックスの相手まで社会的立場を超越するなんて、到底理解しがたい。

セックスは崇高なもの、と都合よく捉えているに過ぎないのだ!
「今度アトリエに来たらいい。」そういった梶だって、所詮仕事の打合せと称して逢瀬を図っているだけなのだ!

すました風情で佇む成美に対して、由羅の内に沸々と憤怒の源泉が湧き上がると、次の瞬間、目を釣り上げて詰問するかのように言い放った。

「それは突拍子もない考え方ですね。 仕事に恋愛感情を持ち込まれるのは、周りが気を使ってしまいます。 そもそも梶さんは既婚者ですし、なおさらですよ。」

しかし、由羅の声は明らかに動揺と失望の色で震えていた。そんな自分自身に驚いた由羅の視線の先で、成美がほんの少し微笑んだのが見てとれた。

その微笑みは、決して嘲りでもなければ、肯定でもない。ただ、静かに、由羅の秘めた想いを受け止めているようだった。

「由羅さんを嫌な気持ちにさせてしまったのは、申し訳ないわね。」

成美は一言詫びた後、ひと呼吸おくと静かに言った。

「梶さんには、俗に言う恋愛感情は持っていないわよ。なんていうか、人として好きなの、純粋に。」

「人として、好き…?」

「それに、あたしも結婚してるのよ。」

成美の背景とは…?
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