月の裏側 – 第3夜 – ランシとシンラ万象

前回までのあらすじ
主人公は、正木由羅(まさき ゆら)。40歳、既婚、5歳の息子を持つワーキングマザー。生真面目な性格ゆえに葛藤の多い日々を過ごしている。
そんなある日、社内で変わり者と有名な執行役員である梶のアシスタントとして異動辞令を受けると、その年の初夏の頃、一度だけ梶と挨拶を交わした際に、梶の不思議にも健全な佇まいに圧倒された記憶が蘇った。
出勤地や業務内容などの詳細もわからない状況の中、上司の水田から直接梶に連絡を取るようにとの指示の結果、発令後に梶と直接会った様子が伺えるような前話。
その数日後、梶の指示により、森山成美(快活で美しい容姿のライター)と箱根のとある美術館の足湯処で待ち合わせるが、挨拶もそこそこに、梶とセックスをしたか、という藪から棒な質問を受ける。

「梶さんと私が、セ、セックス…ですか?」

由羅は狼狽えるように成美に言った。普段発しない単語を使っていることに対して、甚だおかしな状況だと自覚しつつも、成美の質問の真意を知りたい衝動に駆られていることも感じていた。

「ごめんなさい、ユラさん!唐突過ぎましたね…。」

由羅の鈍い反応を見た成美は咄嗟に詫びるが、その言葉とは対照的な好いたらしい笑顔を見せた。

「あたし、そのへんの捉え方がフラットっていうか、オープンっていうか…。初対面なのに、びっくりしたでしょう。ごめんなさいね。」

「は、はぁ…そうなんですか…。確かに、びっくりしました…。」

成美はふふっと小さく笑って、来た時と同じように足湯の感触を楽しむかのように足元に目線を移した。

その横顔を見ながら、由羅は肩透かしをされたかのような感覚を覚えた己に対して再び狼狽えた。

なぜ成美がそんな質問をしたのか。そのことを聞けない己に対しても。

成美と会う5日前のこと。水田から内示を受けた直後に梶とやりとりしたメールを眺めながら、由羅は乗客まばらな箱根登山バスに揺られていた。

2023年11月24日 14:16

梶さん

お疲れ様です。
総務部の正木と申します。

先ほど部長の水田さんから内示を受けました。
12月1日以降の勤務地や具体的な業務内容について、
直接梶さんから伺うよう指示をいただいています。

貢献できるよう頑張りますので、
よろしくお願いいたします。

正木

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2023年11月24日 14:48

正木さん

連絡ありがとう。
12月1日からよろしく。
ひとまず初日は箱根までこれますか?
11時に岡田美術館で会いましょう。

詳しいことは当日に。

https://www.okada-museum.com/

メールには指定された美術館のHPのリンクが貼られてあり、それを開くと息を飲む美しい光景がスマホの画面から溢れ出ている。その場所に向かっているのに、なぜだか人ごとのような不思議な感覚を覚える。
加えて、自宅から片道2時間を超えるその場所に向かっていることも、由羅には不思議に思えた。にも関わらず、今朝自宅を出た時間はいつもと変わらないどころか、少し余裕があるくらいだったことにも。

美術館へ行くこと自体も、とても珍しいことだった。最後に行ったことも思い出せないくらいに。

実はそれには理由があった。由羅には”絵”というものにまつわる密かな苦い想い出があったのだ。

梶の業務命令として美術館へ向かう由羅だが、”絵”に対する密かな苦い思い出があり、
美術館は馴染みのない場所だった。その思い出とは。
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