月の裏側 – 第29夜 - 成美と北鎌倉にて

前回のあらすじ
かつて愛した器や理想の暮らしは、育児と共に遠ざかった。すり減る日常に立ち尽くす朝、由羅は喫茶店で心を整え、仕事仲間の成美を迎える。
北鎌倉の静けさの中、交わるふたりの歩調に、淡い違和と名もなき予感が滲んでいた。

執筆の背景などについては、instagram にて

北鎌倉駅のロータリーは、人の気配がまばらだった。
観光地として有名な寺々は、ほとんどが反対側出口からのアクセスだからだ。
そのため由羅たちが待ち合わせた西口には、人々はあまり出てこない。

一方、目の前を走る県道21号線は多くの車が往来していた。さほどでもない道幅でありながら、横浜港を起点に由比ヶ浜へと続く同路線は横浜鎌倉線と呼ばれ、鶴岡八幡宮の参道としても名高い道だ。そしてその道々には周辺地区の寺院を案内する看板がたち並んでいて、その地の風情を醸し出していた。

由羅はGoogleMapを立ち上げ、梶のアトリエの住所を打ち込む。この日まで、幾度となく妄想した梶の知られざる側面を。

それは、徒歩およそ12分の経路だった。

ふと気がつくと、成美が「どれどれ…」と言いながら、由羅のスマホ画面を覗き込んできた。
すぐに道順の検討がついた様子の成美は、由羅を先導するように近くの横断歩道をわたり、ほどなくして小さな路地に曲がっていった。

由羅は成美に何か大切なものを奪われたようで、不愉快な想いが静かにうごめく感覚を覚えた。

とは言っても、由羅は方向感覚に自信がないこともあり、仕方なく成美の後に続いて歩いていく。そんな自分が情けなかった。

しかし路地裏は、ところどころにほころぶ紅色や山吹色が閑静な住宅街を彩っていて、とても美しかった。由羅の複雑な心境に反するような、きっぱりとした美しさ。

ー この先に梶さんのアトリエがあるのね… ー

由羅は様々な思いをはらみながらも、緊張感が台頭してくるのを静かに感じとっていた。

二人並んで歩くには狭い路地なので、由羅はなおも成美の後ろ姿をついてゆく。時折振り返って、由羅のGoogleMapを覗き込む成美の様子はご機嫌そのもので、その姿はまるで付き合いたての恋人の家に行く女のようだ。

それも不愉快な想いがした。

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2023年12月12日 10:26

正木さん

例の特集記事について、森山さんと僕達で集まって話そう。
日程調整をお願いします。

場所は僕のアトリエで。
鎌倉市山ノ内
×××-×

そんなメールを梶から受け取ったのは、南青山のBACKSIDE BARの出来事からわずか数日経った後だった。読み終わった瞬間、カウンター席で唇が触れるほど接近した梶の気配が生々しく蘇る。

「今度、私のアトリエに来たらいい。」

バーの別れ際に言われた言葉は、本当だったのだ。

ところが、
ふたを開けてみてみれば、成美も一緒だなんて。

しかも、3人で会うこと自体も、そもそも成美から既にメールで聞いていたのである。※第19夜 参照

その時、落胆と苛立ちが混ざったような感情を覚えた由羅は、言い知れぬ恐ろしさを感じた。

「君はその名の通り、いつも心がゆらゆらと揺れているように見えるね。」

あの日、梶に言われた言葉は、確かに的を射ていると、由羅は日ごとに強く感じる。梶の存在は風のように、己の枝葉を常に揺らしているのだ。

同時に、結婚に対する思想にまで言及された由羅は、一言でいうなら、大いに混乱しているのだった。

由羅は堪えきれず、成美の背後に向けてとうとう口火を切った。

「あの… 成美さんは、梶さんとお身体の関係があるんですか?」

これ以上、自分の心をかき乱すようなことを避けるには、現実を直視しなくてはいけないのだ。

梶が既婚者であろうとなかろうと、まずは目の前の二人の現実に。

続き▶︎ 第30夜 | 澄明と翳り
梶と成美の関係性がついに明かされる?

この物語はフィクションであり、実在の施設・団体とは一切関係ありません。

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