前回のあらすじ
香子は、二十歳年下の青年・紺と母との食卓を囲みながら、亡き父との断片的な記憶を想起する。
酔った母を見送り、二人きりになった夜のプールサイド。風に揺れる水面の煌めき、幻想的な情景、そして言葉を超えた心の交流によって、紺と共に水に身を沈める香子。触れ合う掌、たゆたう髪やスカートの裾、交わされたキス。
それは若さの青さと静謐の祈りが溶け合う、魂の再生にも似たひとときだった。

2023年12月某日
喫茶店の棚に並べられた数々のアンティーク食器を眺めながら、
(前は、こういうの好きだったなぁ…)
と、由羅はそんなことをぼんやりと思い出していた。
かつて好きだったあれこれは、5年前に由太が生まれて以来、由羅の生活からほとんど姿を消してしまった。
例えば、洗練された食器類。
モンテッソーリ教育に興味があった頃、当時2歳の由太に陶器の食器を使わせていた。敢えて割れる素材を与えることで、物が壊れることや物を大切に扱うことを学ばせるのだ。
ところが、幼い由太は幾度も食器を割った。言い聞かせても、なかなか思うようにいかず、ある時からプラスチック製の食器に切り替えたのだった。
高価でなくとも、それなりにこだわって選んだ陶器の食器たち。飛び散った破片を掃除する度、理想と現実は違うのだというメッセージを受け取っているような気がした。
一人息子を立派に育てたい一心で、妊娠時からあらゆる教育メソッドを研究した。あるいは、自然派の食事作りにも気を配った。
ところが、子を産んだ結果、由羅がもっとも現実に打ちのめされたのは…
圧倒的な時間的余裕の欠如だった。
育児休業からの復職時に、掃除ロボや食洗機などの家電製品を導入するも、しなければならないことがワーキングマザーを次々に襲ってくる。
いつしか由羅は、保育園での夕食提供サービスを使うようになった。手抜きをしているようで胸が痛んだが、食事作りのオペレーションが減るのだ。仕事の繁忙期では、背に腹は変えられなかった。
そんな時には決まって「ごめん、今夜は外でご飯済ませてきて。」と夫に言った。ちょっとした朝の挨拶のように。
「ごめん。」「あぁ、別にいいよ。」
そして、19時過ぎ、仕事で疲れ切った由羅は駅前のスープストックで軽い食事を済ませてから、保育園に向かうのだった。
かつて夢見ていた家事・育児と仕事の両立は、ただの絵空事だったのだろうか。
諦めているはずのキャリア。
それなのに、なぜ、がんばるのだろう。
誰のために、がんばるのだろう。
いや、はなから諦めていたのは、そもそもキャリアではなく、むしろ「家事・育児と仕事の両立」の方だったのではないのか。
自分が無理しているのかどうか、その判別もつかない日常に埋もれていく感覚は、まるで蟻地獄に引きずられているようだった。いっそ穴の中に落ちてしまえば、何かが分かるのではないか。
振り返ってみれば、そんな物憂い気分が続く中での異動辞令だった。
レンガ作りの窓から差し込む朝日を浴びながら、かつて過ごした総務部での葛藤を想起して、由羅はブラックコーヒーを口にする。一切の雑念を振り払うべく。
しばらくすると、
「由羅さん、おはよう。駅に着いたわよ。」
というLINEのメッセージを受け取った。飲みかけのコーヒーをあとにして店を出ると、小さな駅前のロータリーに成美が立っていた。
成美のメイクはさりげなく、初対面の時と同じ深緑のダウンジャケットを羽織っていた。そして黒のシンプルなニット帽、スキニージーンズとミディアムブーツ。
由羅にとって最後の成美の印象は、暗がりのバーでの妖艶な姿であり、梶との関係性を匂わせる謎多き女だった。それだけに、今朝の姿が初対面の印象と同様で安堵するも、彼女の二面性に対して、由羅の中で微かな疑いの芽が芽吹いていることは明らかだった。
「喫茶店にいたの?どうやら早く到着したみたいね。箱根ではお待たせしちゃったから、今日は約束の10時ピッタリに来たのよ。由羅さんったら、隙がないのね。」
会った途端、成美がぱたぱたと小走りするように話し出す。
「本当ならゆっくり家を出ても良かったんですけど、いつもと同じ時間に保育園に登園しないと、変に勘繰られてしまいそうで。」
「えー?!そういうものなの?」
「有休取ってると勘違いされたくないんですよ。それなら、自宅保育したら?って空気だから…」
「気にしすぎじゃないの?由羅さんは、隙がないというか、隙を見せない人ってわけね。」
”隙を見せない人” と評されることに、由羅は喉の奥につっかえのようなものを感じた。幼い頃、父親にもっとしゃきっとしなさい、とよく言われていたのだ。「ぼーっとしてないで、しゃきっとしなさい。」と。
そもそも ”大人になる” とは、隙のある自分を見せてはいけないことではないだろうか。
まぁ、子供がいない人には保育園事情など、わからなくて当然だろう。ましてや、既婚者と悪戯にキスするような人だ。
いくら同年代だからといって、成美と自分の間には埋まらない溝があることに、由羅は図らずも落胆した。
「それじゃ、行きましょ。」
由羅の抱く複雑な気持ちを知ってか知らぬか、成美は笑みを讃えながら軽やかに歩き出す。
JR北鎌倉駅西口から、ふたりは梶の別宅兼アトリエへ向かう。
続きは、7月25日 新月の夜 更新予定
梶の別宅兼アトリエはどんな場所か…
この物語はフィクションであり、実在の施設・団体とは一切関係ありません。
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