月の裏側 – 第27夜 - 紺と子宮の中

それは香子が中学生の頃、寒い真冬の時期だった。京都のとある酒蔵へ、父は香子たちを連れだって出向いたことがあった。

そこは江戸時代から変わらない手作りの製法で日本酒を作る酒蔵で、父が長年愛飲する銘柄の酒造メーカーだった。そのご縁で麹造りの現場を特別に見学できるんだと、父は意気揚々と日本酒にとって麹がいかに大切なものなのかを道中香子に語って聞かせた。

母と同様、香子もやや退屈だったが、酒蔵に到着して、関係者以外立ち入ることが禁じられた区画に入るやいなや驚いた。アルコールの香りが充満しているのかと思えば、かぐわしい果物のような甘い香りに身を包まれたからだ。

ー 見てごらん ー

ある部屋の前で父が、小声で香子と母に手招きしていた。

近づいて麹室(こうじむろ)という呼ばれる部屋の小窓を覗いてみると、上半身裸の中年の男たちが、ハチマキ姿で白くてふかふかとした弾力性のある雪のようなものを巨大な台の上で力強く揉んでいる。

それは、床揉(とこもみ)という作業だった。

床揉とは、種麹を散布した蒸し麹米を高温多湿の中で、十分な労力を使って丁寧に揉み上げる作業だ。種麹の胞子を均一に付着させると共に所定の水分と水温にするための、良質な麹造りにとって大事な工程である。

「昼夜問わず、この作業が行われるんだ。精魂こもった酒は、やっぱり旨いもんだな。」

父が感慨深そうに呟く側で、香子は男たちの太い腕や胸板や少し出っ張った腹の肉、そして額の汗をぼんやりと眺めていたのだった。

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時計が20時を指すころ、由紀子が手洗いに立つと、その足元はおぼつかないほどに酒が身体中を巡っていた。食事を開始してから2時間過ぎが経っていたし、心から愛していた亡き夫の話を熱心に聞く若者が目の前にいて、未亡人の心はすっかり解れていたのだった。

「まったく、お母さんったら、酔い潰れちゃったわね。」

小言を言う香子に介添えされ、なんとか手洗いを済ませて自席に腰掛けた由紀子は、満足気な表情を浮かべながら、

「あぁ、愉快な夜だった。あたしは先に部屋に戻るわね。眠たくてしょうがない。若い貴方たちは、まだまだ飲めるでしょ。楽しんでってちょうだい。」

と言って、再び立ち上がろうとした。

が、その瞬間だった。由紀子の足元がふらつき、思わず転倒しそうになったのである。

香子がはっと息を飲んだ直後、紺が由紀子の上半身を支えるように腕を伸ばし、事なきを得た。

「おどろいた。自分が思ってるより、酔ってるみたいねぇ…」

動揺の色を隠せずひとりごちる由紀子の細い腕を支えながら、紺が「部屋までお連れしますよ。」と静かに言った。

母が紺と密着している姿も相まって、香子はその時分、一抹の胸騒ぎを覚えた。しかし、一人では母を連れていく自信もなかったので、「それじゃあ、お願い。」とたどたどしく答えたのだった。

20歳も歳の離れた香子と紺がとうとう?
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