月の裏側 – 第26夜 - 仏たちの青史

「そこから更に200年の時を経た今はと言うと、欧米を中心に仏教ブームが到来しています。元来彼らは合理主義・科学主義ですからね。性に合っているのかもしれません。他方、現代の日本人は、法の教えのおおよそも分かっていない。」

ツアー一行の最後尾に視線を移した青年はそうやって話を続けたが、その声音の表面に薄い氷が張ったかのようだった。青年は柔らかな空気を纏いながらも、その淡い虹彩に翳りが落ちたのを香子は見逃さなかった。成人式を終えたばかりであろう若き人間の魂が、身体の奥の方で光っている。

「日本の方よね… 貴方はガイドさんなの?」

由紀子が訝しげな表情で尋ねると、青年の声音は瞬く間に氷解し、

「あ、いえ、僕も9時半出発のツアーなのですが、少し遅れてしまって。」

と、優しく目を細めて答えた。

「ついこの間ね、主人が亡くなったの。貴方の話を聞いていたら、ここの仏様たちと主人は似ていると思ったわ。あの人ったら、時代がどんなに変わっても、自分を変わらず持っていたのよ。」

由紀子の声には生気が漲っていて、まるで傍らに亡き夫がいるかのような堅実さがあった。

「芯を持っていたご主人だったんですね。」

青年が言葉を選びながら慎重に答えると、

「えぇ、本当にそうだったわ….」

由紀子はやや視線を落として、噛みしめるように言った。

すると、由紀子は突然顔を上げ、思いついたように聞いたのだった。

「ねぇ、貴方、この近くでお泊まりなの?今夜、私達のホテルでご一緒にお夕食しません?」

「お母さん、四十九日を超えてもいないのに、お誘いするなんて失礼よ。」

慌てた香子が由紀子の袖を引っ張り、提案を却けようとすると、青年の眼差しは香子にしっかりと向けられた状態で、

「いえ、喜んで。お父さんのお話を聞きたいです。ご供養になると思います。」

と、静かに、しかし、力のこもった言い方で香子を制した。

「まぁ、そう言ってくださって嬉しいわ。私たちだけで過ごしていると、ついついしんみりしてしまうから。」

由紀子の表情はパッと明るく弾けたが、香子は母が言った ”しんみり”という言葉に、小さな棘のような引っかかりを覚えていた。

その言いぐさは、しんみりしてしまう原因は自分といるからと言いたげだったからだ。
しかし、誰よりも気落ちしていたのは、他ならぬ母ではないのか。

香子はまるで梯子を外されたような気持ちで、母と青年が並び歩く後ろ姿を見つめる。

 

自分に向けられていた青年の瞳は、やはり輝いていた。あの馬車の御者のように。

 

すると、ラフマの洒落が、ふと脳裏に浮かんだ。

ー 今夜、食事をご一緒しませんか。ー

奇しくも、男と食事を共にすることが現実となる。

夫ではない男と、久々に。

香子は既に隠しきれずにいた。
青年の姿と若き日の夫の姿を重ね合わせていることを。
淡く抱く好奇心を。そして、揺らぎ始める疑念と恐れを。

 

続き▶︎ 第27夜 | 紺と子宮の中
旅先で出会った日本人青年と夜を供にする!?

この物語はフィクションであり、実在の施設・団体とは一切関係ありません。

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