月の裏側 – 第26夜 - 仏たちの青史

前回のあらすじ
香子と母・由紀子は、亡き父への思いを胸に、ボロブドゥール寺院を訪ねる旅に出る。夫の梶の提案で選んだこの地には、かつて眠りについていた巨大な仏教遺跡がそびえていた。
観光ガイドのラフマが陽気な調子で遺跡の構造や仏教宇宙観について語りながら一行を導く。美しいレリーフの数々に目を奪われ、香子と由紀子はやがて最後尾に取り残されていく。時間制限がある中、焦りを覚える香子だったが、由紀子の落ち着いた様子に歩みを緩めた。そのとき、背後から澄んだ日本語の声が響く――。


今回も、香子編。第20話(バーベルとシルクの肌着)に登場する謎の青年との出会いの旅が描かれる。
執筆の背景などについては、instagram にて

Source | https://whc.unesco.org/en/list/592/gallery/&maxrows=46

青年の肌は、すっかり日に焼けた色合いをしていたが、一方その眼は日本人にしてはやたらと淡褐色だった。そよ風が吹くと、耳がやや隠れるほどに伸びた髪が、さらさらと気持ち良さそうになびいた。瑞々しく潤う薄い唇。その周辺に生える無精髭は、かえって青年の若々しさを目立たせていて、その新鮮な伊吹に対して、香子は危なっかしさを感じたのだった。

赤紫色の大きなリュックを背負っているところを見ると、明らかに世界を周遊するバックパッカーの様子だが、清潔な佇まいだった。ノーカラーの麻のシャツは皺でよれているわけでもなく、清潔な生成りのハーフパンツを履いている。

香子はどういうわけか、その青年のことをミルクティーのような ”子” だと感じた。
発酵した高級茶葉とほんの少しのミルクが混ざり合ったような愛らしい飲みもの。

青年は柔和な表情を保ちながら、レリーフや仏像に視線を移して歩を進めると、ゆったりと語り出した。

「ここの仏たちをめぐる有為転変は、とても激しかったんです。ジャワに栄えたジャワ仏教・ヒンドゥー教の王国とその文明とは、ちょうど熱帯の昼がたちまち夜にうつるように、千年ほどの前に突如として跡形もなく消えました。

それが内乱の為だという説もあるし、ムラピ山の大噴火とそれに伴った大洪水のためだという説もあるのですが、いずれにせよその後永らく領したものは、まったくの荒廃でした。仏たちは、それから千年もの歳月を密林の土の底で眠らなければならなかったんです。

しかし、仏たちの眠りの間にも、地上の物事は移ろぎました。13世紀頃イスラム教がアラブやインド、ペルシアの商人たちを通じて海上交易ルートからジャワ島に伝わり始めますが、その後16世紀以降はポルトガル人、オランダ人、イギリス人が来て、欲しいままに振る舞うようになりました。その間にも王朝は幾つか興っては滅び、数知れない戦争が行われたわけです。

そして、1814年にイギリス人のラッフルズの発見によって、500年近くの眠りから覚めました。

その時、仏たちがみた景色は、どうだったでしょうか。

あいも変わらず熱帯の太陽は眩しくきらめき、密林は蒼く生い茂り、野鳥は歌をさえずっていましたが、ここへやって来たのは、不思議な宗教を持つ紅毛碧眼の人々の我がもの顔でした。

さもなくば、見た目は変わらずとも、かつての信仰も文化も忘れ去った土着の民の姿でした。」

由紀子がまさかの誘い?
次のページへ

1 2

コメント

コメントする

目次