月の裏側 – 第25夜 - ストューパと洒落

前回のあらすじ
父の四十九日を前に、香子は母と共に南国ジャワ島を旅していた。馬車に揺られながら、かつて父が煙草を燻らせながら呟いた「人は信じる真実がなければ嘘を信じる」という言葉を思い出す。異国の御者の男に抱いた第一印象と、その後に浮かんだ本能的な想像のギャップ、母の変化、亡き父の面影──さまざまな思念が、柔らかな自然の中で交錯する旅路の始まりだった。

第25話も、香子編。第20話(バーベルとシルクの肌着)に登場する謎の青年との出会いの旅が描かれる。今夜、ついに青年登場。

馬車は山並にかこまれた稲田や村の雑踏を抜けて、やがてある遺跡の観光地へ到着した。

御者の男が浅黒くか細い腕を差し伸ばしたかと思うと、香子の手をとり、馬車から下りるのを介助した。着地した途端、帽子が風に飛ばされそうになったので、香子は慌ててその手を離して、帽子を押さえた。

久々に握る夫以外の男の手が、まさか海を隔てた異邦の人のものだとは…

明らかに異なる掌のガサついた感触とやや湿ったような温もりを思い返す。2機の飛行機を乗り継ぎ、ようやく辿り着いた場所だというのに、その時に初めて、香子は自分は日本にはいないのだと実感した。

礼を伝える時に目を合わせると、男の眼差しが清らかに澄んでいることがはっきりと見てとれた。馬車で抱いた束の間の野蛮な妄想に香子は恥じ入り、すぐさま帽子のつばの奥に視線を隠した。

由紀子が後に続いて降りる時、男は一層慎重にもう片方の手を背中に添えて老女を配慮した。よいしょ、とかけ声を響かせ、しっかりと着地する未亡人の風情には、昨日まで纏っていた哀憐さが、どこかに消え失せているように見えた。

旅に行くことを由紀子に打診した時、母の悲壮の感慨を更に増幅するような仕打ちをしているのではと、香子はうしろめたかった。由紀子は無表情のまま、しばらく押し黙っていた。

沈黙に耐えきれず、梶からの提案でもあることを伝えたら、由紀子は初めてやっぱりと言いたげな表情を微かにしたかと思うと、意外な一言を呟いたのだった。

「それなら… お父さんがこれから行く場所のことを、知りたいわ。」

Borobudur Temple, Java, Indonesia

帰宅してそのことを夫に話すと、梶はややあってから穏やかな口調で答えた。

「ボロブドゥール寺院を訪ねてみたらどう。密林の中に聳え立つ世界最大級の仏教遺跡。三層構造に築かれた巨大なストューパで、階段を登っていくんだ。その間にたくさんのレリーフがあってね、最上階まで登り切ったら、幹雄さんの行く場所が少し分かるんじゃないかな。」

そして、香子の背中に優しく手を添えて、耳元で囁いたのだった。

ー 香子(かおるこ)もきっと気に入るよ。 行っておいで。ー

夫のその言葉を反芻しながら、眼前に迫る威容をたたえた巨大な石造建築を望む。雲ひとつない紺碧の空を背景に、涅槃の境地がそこにあるかのように佇んでいた。

ー これが、ボロブドゥール… ー

太陽は次第に輝きを増し、木々の朝露を完璧に乾かした。清々しい風と葉音に導かれるように、ふたりは観光ツアーのカウンターに向かった。

ユネスコの世界遺産に認定された遺跡は、観光の際の人数制限がかかっているため、香子は予め9時半にツアーを出発するチケットを手配していたのだった。

タイトルにある洒落とは…?
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