月の裏側 – 第24夜 - ジャワ更紗と馬車に揺られる

前回のあらすじ
10年前のある日、香子は他愛のないことで梶と喧嘩をしてしまう。感情的になり赤ワインを梶のシャツに引っ掛けてしまった香子は居た堪れなくなり、自宅を飛び出した。

閉店間際の喫茶店に入店すると、マスターから今夜は皆既月食だと聞くが、全く興味を示さない香子。
自己嫌悪、怒り、性的欲望、孤独、母性への拒否感、社会構造への違和感など、多層的な感情が入り混じる中、退店後に夜道を歩いていると、街路樹のベンチ下に子猫が捨てられているのを見つける。

抱き上げてみると、みるみる香子の目元が熱を帯びてくる。何かが溢れないようにと、咄嗟に上を見上げてみると、香子と子猫の頭上に赤銅色の月がぽっかりと空に浮かんでいた。それは、夫のシャツについたワインのシミと同じような色だった。

その子猫が、飼い猫となるカイだった。

第24話も、香子編。第20話(バーベルとシルクの肌着)に登場する謎の青年との出会いの旅が描かれる。

「人間の心は何ものかを信ずる必要がある。信ずべき真実がない時、人は嘘を信ずるのである。※」
※Mariano José de Larra (1809-1837)

かつて父が静かに言った言葉。香子は南国の馬車に揺られながら想起した。19世紀のスペイン人作家による言葉らしいそれを、居間のソファーにどっしりと腰掛け、煙草の煙を燻らせながら、独り言のように呟いていたあの情景を。

それから、父は続けて言った。

「フェイクに、世界は踊っている」ともー。

source|Amanjiwo in Java, Indonesia

艶やかな茶色の毛並みをした馬は、客車に香子と母の由紀子を乗せて、悠々と歩を進めていた。数十年前には舗装されていなかったであろう細い道。目隠しをされた馬のかたわらで、幾台もの日本車が勢いよく追い抜いていく。

馬車を運転する御者の男は、インドネシア伝統のジャワ更紗※製のシャツと帽子で慎ましやかに身を固めているが、その後ろ姿から、どことなく一抹の野蛮性を漂わせている。
※インドネシアのジャワ島を中心に作られてきたろうけつ染めの伝統的な布地のこと。別名バティック。

妙な気がした。朝方、ホテルのロビーで日本人親娘を出迎えた男の表情は柔和で、優しげな眼差しはまるで穢れを知らないようだったからだ。

年齢は30代後半だろうか。今しがた思い出していたあの頃の父の歳と同じ位だと気がつく。随分昔のワンシーンにも関わらず、なぜだか香子にとって印象的だった。父はあの時、思い煩っているようだった。

ジャワ更紗のシャツがはだけ、男が浅黒い肌をあらわにし、第一印象とはまるで裏腹な、女を乱暴に抱く場面を想像する。この国ではどんなセックスをするのだろうか。

ほこりっぽい空気の中に、日本とは異なる柔らかな自然のゆらめきを感じながら、瑣末的な思考が頭をよぎる。

左隣に座る由紀子がどこか懐かしそうな眼差しで、緑深い田園風景を見つめている。相変わらず腕は細く筋張っているが、この地の穏やかな気候が未亡人の生気を漲らせているように見えた。わずかながら頬に血色も感じられる。わずか2週間前の葬儀では蒼顔を呈していたのに。

そう、父の四十九日を迎える前に、南の異国への旅行を敢えて決行したのだった。
夫の梶があの日、提案した通りに。
※第22夜(半裸の林檎と濡れた髪)参照

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続き▶︎ 第25夜 | ストューパと洒落

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