月の裏側 – 第23夜 - 猫と赤銅色の月

店内はもの静かなピアノジャズが淡々と流れている中、マスターがコーヒーをカウンター越しに提供してくれた。

「月はみましたか?」

ここへ来るのは4、5回目だが、これまでマスターが話しかけてくることはなかったので、香子は少し驚いた。

「いいえ… 月が何か?」

何もこんな最悪な日に… と心の中で毒づきながらも仕方なく聞いてみると、

「今夜は皆既月食なんですよ」

と、目尻に深い皺を浮かび上がらせたマスターが言った。

「食の最大は19時55分だそうです。帰りがけにご覧になってみてください。」

そう言い残すと、ゆっくりと普段の定位置に戻っていった。

香子は、ニュース番組、ましてやワイドショーなどといった世俗的な情報に触れることを毛嫌いしていた。一次情報に勝る真の情報はない、と父が常々言っていたことも影響されているかもしれないが、そもそもこの世界は、悪意に満ちた男達が創造したものだと香子は思っている。だから公共の電波から流れる情報は、香子にとって虚構に過ぎない。

宇宙が暗闇のように、子宮の中が暗闇のように、この世界だって暗闇がベースなのだ。その中のちっぽけな頼りない光に対して、人々はありもしない希望を見出して生きている。

テレビやラジオでは今夜の皆既月食を話題にしているのだろう。正直、今は月がどう見えていようとも知ったことではない。

熱いコーヒーを口にしながら、月の代わりにカップを手に持つ自分の指先をまじまじと見つめた。美しく施されたネイルアートは一体何のためにあるのだろうと思った。同じ年頃の友人たちは子を持った途端にネイルサロン通いを卒業し、爪は短く切り揃えている。

香子には子供を育てる自信がなかった。正確に言うと、子の母親になることに対して、えも言われぬ嫌悪を感じていた。混沌とした世界に、女として子宮を持った体を持って生まれてきたことは、自分の人生の道筋を勝手に決められてしまっているように感じて、吐き気すら覚えるのだ。

女は子供を産むことが前提といった社会の中、従順に子を産み、父在りきの健気な生き様を見せる母の姿を側で見て、自分はそうはなるまいと決心していた。”男に、あるいは悪意に満ちた男達が創った世界に所有される女” にはなるまいと。

ところが、気が付けば、 ”梶泰介” という男にまるっきり染まってしまっている。

君の体は君のものだし、僕にはどうすることもできないよ。

そう言われてひ、どく傷ついたのは、どこかで見下していた ”女” にすら、なれない自分に対して傷ついたのだ。

source| 皆既月食の月

閉店時間に店を出ると、更に外が暗く感じられた。小一時間温まった身体は、素肌の足元のせいで、途端に冷えてしまいそうだった。

かといってまだ帰りたくもないので、しばしあてもなく歩いていると、道すがらに上を見上げてスマホを掲げている人々と幾度となく遭遇した。どうやら月は雲なんかには隠れずに、夜空でその姿を現しているのだろう。

香子は世の中に抗うかのように俯き加減にひたすら歩いた。どこからともなく聞こえてくる一匹のセミの声はさっき鳴いていたセミだろうか。その周辺は車通りが少なくて風もないため、やたらと些細な音が気になった。

そんな時、ふと、ミャーという微かな声が、セミの声に紛れて聞こえた気がした。

足を止めて辺りを見返してみる。どこかの飼い猫?それとも野良猫?いずれにしても、明らかに成猫の声ではないことは分かった。半径数メートルの範囲で声の主を探している間にも、か細い声が途切れ途切れに聞こえてくる。

すると、街路樹の側にあるベンチの足元に和菓子屋の紙袋が置いてあることに気がついた。よく見てみれば、袋がカサカサと微かに揺れている。

まさかと近寄り、そっと中を覗いてみると、手のひらに乗るくらいの小さな子猫が鳴いていた。ちょうど上を向いて鳴いていたので、香子は子猫と目が合ったような気がした。

その姿を見た瞬間、香子は子供の頃に可愛がっていた猫のおもちゃを思い出した。電池を入れるとひたすらニャーニャーと鳴く、あのふわふわの猫。誰からもらったのかは覚えていないが、確かその猫も白と黒のブチ模様だった。

しかし、目の前に現れた子猫には、見紛うことなく本物の命が宿っている。

両手で抱き上げてみると、子猫は安心したかのように鳴き止んだ。いかにも血の通っている温かいそれは、わずかに震えているかのようだった。

気がつけば、次第に香子の目元が再び熱を帯びていた。何かが溢れないようにと、咄嗟に上を見上げてみると、香子と子猫の頭上に赤銅色の月がぽっかりと空に浮かんでいた。それは、夫のシャツについたワインのシミと同じような色だった。

 

続きの更新日は未定です。
目処が立ち次第、改めてご案内します。

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