月の裏側 – 第23夜 - 猫と赤銅色の月

とぼとぼと歩いていると、どこからともなく1匹のセミの声が聞こえてきた。10月初旬、少しずつ葉が枯れてきた頃合いに、その声だけが住宅街の空気を奇妙に揺らしている。

数年の幼虫期間を経てようやく羽化したにも関わらず、いっさいの仲間がいない世界とは、なんと孤独で恐ろしいものだろう。ないたところで、誰にも見向きされない。

そう、泣いたところで、見向きもされない…

香子はセミと自分が重なって思えて、気持ちが更に萎えてしまいそうになった。

晩酌を酌み交わす時に見る夫の笑顔が、香子は好きだった。はにかむような微笑も、華やぐような豪快な笑いも。にも関わらず、今夜はその真逆の表情を浮かべていた。香子は抜き差しならぬ最悪な出来事が起きてしまったような気がして身震いした。

気がつくと、足元は素足にミュールサンダルという格好だ。9月いっぱい残暑がしつこいくらい続いていたため、夏物を玄関先に置いたままだったのだ。あの時、すぐさま外に出るには好都合だったが、さすがに夜寒には厳しい。

香子は近くの喫茶店に入ることにした。そこは昭和後期から営業しているその界隈では老舗のコーヒーショップだ。重厚な一枚板でできているカウンター席中心の空間が、まるでオーセンティックバーのようで香子は気に入っていた。店内はほのかに薄暗いし、きっとそこなら気持ちが少し落ち着くだろうと思ったのだった。

レトロな扉を開けると、フクロウのドアベルがカランと静かに鳴った。その瞬間、焙煎されたコーヒーの香ばしい香りが脳天を突き刺した。それはまるで正気を戻せと諭しているかのようで、それに思いがけず動揺してしまうと、二十歳前後の学生であろう若い女性店員が近づいてくる。

1時間後に閉店ですが、よろしいですか?と聞いてきたので、問題ないと答えつつ腕時計を見遣ると、ちょうど19時を指す頃だった。客はカウンター席に唯一中年男性がいたが、マスターとの雑談の雰囲気から察するに、間も無く会計の様子である。

カウンターの奥の方に着席して、ここへ来ると必ずオーダーするニレブレンドを注文した。その時にはさっきの客はさっさと会計を終えて外へ出ていくところだった。早々に喫茶店の客は、香子ひとりだけになった。薄暗い店の中、サンダルの足元を気にする人物も、熱を帯びて赤くなっている目元や頬のことを気にする人物もいない。

目の前の棚に整然と陳列されたアンティークのカップアンドソーサーが、場の静謐さを物語っている。いつもならその雰囲気に浸りながら、うっとりとそれらを眺めるのだが、今夜はそんな気にはなれそうにもなかった。

もっとも普段は物静かな香子が錯乱してしまったのに、決定的な事件が起きたわけではない。

その日はふいに夫が昼過ぎに帰宅してきたので、香子は嬉々としてワインの栓を開けたのだった。偶然にもブルーチーズを買い付けたばかりで、それを肴にしようと提案したら、梶も大いに同調した。(香子はその瞬間、自分のことをとても誇らしく思った)

そして、ブルーチーズは信じられないくらいにワインとの相性が秀逸だった。会話中に時折交わすキスは、どことなく木片の湿った香りがして、わずかな苦みが混じり合うものだった。次第に増幅する多幸感からお互いの身体を弄り合うと、最終的には西陽の差すベッドルームでふたりは全裸になってセックスした。

ことが終わってベッドで全裸のまま並んで寝そべっている時、香子は自分達夫婦のことを、無邪気な子供たちのようだと思った。もしかすると前世は一卵性双生児だったのではないかと思えるくらいに、夫と自分の身体は元々ひとつだったと感じられた。

一方、幾度となく身体を重ねたところで、心がひとつになれる気配がしないのも事実だった。

子猫のカイが登場
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