月の裏側 – 第23夜 - 猫と赤銅色の月

前回のあらすじ
香子の父の葬儀から3日経った朝のこと。梶が香子と母の二人で遠地の旅に行くことを勧めた。しかし梶は女性を魅了する人物だけに、自宅を長らく不在にすることに躊躇いがあった。加えて、自分との距離を置かれるような提案自体が嫌だったのだ。

梶はそんな香子の想いを察しつつ、着衣のままキッチンで情事に及んだ。その側で一匹の猫が物陰に潜んでいた。


時間軸は小説内の現在地に戻り、そこから10年前を回想する。

そのオス猫はカイという名で、夫婦の飼い猫というより香子の猫だった。

およそ10年前の皆既月食の日に拾ったので、それにちなんで ”カイ”と名付けた。以来、新調する度に選ぶ首輪には、月をモチーフにしたチャームがついている。白と黒のモノクロの毛並みはすこぶる美しく柔らかく、それでいて健康的な張りがある。

香子はカイが階段を降りていく後ろ姿を、2階のメゾネットからさり気なく見下ろすのが、とりわけ好きだ。しなやかな身体つきのそれが、段差を降りていく度に肩甲骨の筋肉が隆々と盛り上がる様に、どういうわけだか圧倒されてしまうのだ。その時ばかりは野生動物にすら見えてしまう。

Pierre Bonnard, The Bourgeois Afternoon, or The Terrasse Family, 1900

そんなカイを子猫の頃に拾う数時間前のことだった。
香子は梶を罵っていた。自宅のリビングとダイニングの間にあるスペースで、幼い子供のようにわめき散らし、地団駄を踏んでいた。

「もし私がほかの人と寝ても平気だって言うの!?」

「君の体は君のものだし、僕にはどうすることもできないよ。」

「どうしてそんな酷いことを言えるのよ!!!」

とうとう香子が耳をつんざくような声で叫ぶと、ダイニングテーブルのワイングラスを手に取り、中身を梶の胸元あたりに引っ掛けてしまった。

せめてあの瞬間は「君」と呼ばれたくなかった。きっとよその女にも言っているに違いないのだ。狂乱するのは飲み過ぎたワインのせいでもあったが、そもそも香子の我慢の限界だった。

万人を惹きつける不思議な魅力を持ち併せる梶は、常に女の影がレースカーテンの向こう側に透けるようにチラつくほどで、いよいよ入籍する際、香子は流石に躊躇もした。

しかし、結婚後も梶の人柄は変わりようもなく、鎌倉のアトリエだって変わらず梶にとって大切な場所であり、香子のいる世田谷のマンションに帰ってくるのは2〜3日に一片の有り様だ。(さらに国内外への出張もしょっちゅうだ)夫が隣にいないベッドはやたらだだっ広く、原野に放り投げられたように心許なかった。そんな時は決まって、ベッドの隅で夫の香りが残る服を纏い、夜な夜な自慰行為に耽るのだった。

元より梶と破瓜を経験したのは、始めから定められた因縁だったのだろう。以来、香子にとって梶が世界の殆どとなってしまった。その時分は男女の付き合いには発展しなかったものの、何人もの異性と出会いながら結局のところ、梶以外に香子を夢中にさせる男はいなかったのだ。

ワインは梶の着ていたコットンリネンのシャツの一部を赤銅色に染めていた。困惑した表情を浮かべながら、もはや返す言葉を失い呆然とする夫の姿を見て、香子は心底絶望した。そのシャツはいつも梶に素晴らしく良く似合っていて、着ている姿を想像しながら愉快な気持ちでアイロンがけするのが常だった。(それを着て自慰行為に及んだこともある)

が、今、目の前にいる夫の姿ときたら、赤銅色のシミで汚れたシャツに身を包んでいて、哀しくもみそぼらしく見える。

居てもたってもいられず玄関の方へ走り、ドアを勢いよく開けた。直後、外が暗いことに一瞬我に返ったが、玄関先に近所のスーパーへ出かけた時に使った小さなトートバッグと小銭入れが置いてあるのが目に入ると、香子は躊躇なくそれを掴み取り、家から風のように飛び出した。

香子はどこへ向かうのか
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