月の裏側 – 第22夜 - 半裸の林檎と濡れた髪

前回のあらすじ
香子の父 幹雄の葬儀で、香子は荼毘にふされた父の亡骸を複雑な想いで見ていた。父のために生涯を捧げた母のすっかり痩せこけた姿を、未来の自分の姿として重ね合わせると俄かな恐ろしさを感じた。
母と遺影を持つ夫である梶の間に立ち、己の胸に父を抱き、参列者に一礼をする香子。それは結婚式以来の正式な家族行事だった。

それは幹雄の葬儀から3日経った朝のことだった。厚い雲が空に沈殿しているかのようなどんよりとした朝だった。

コーヒーの香りが薄暗いキッチンの中でほのかに立ち始めた時、

「由紀子さんと旅をしてきたら?」

梶が不意にぼそりと言った。梶は義母のことを名前で呼ぶのだ。

「近々にでも」

付け加えたかのような「近々」という言葉。さっきのは提案ではなく、命令であることを伺わせている。

香子はやむなく林檎の皮をむく手を止め、隣に立つ夫の姿に視線を移した。視界にコーヒーをゆったりと淹れる梶の姿が映った。一見すると平穏な日常の光景だが、僅かにくすぶる不穏な空気が漂っている。

毛先が湿っているのは、今しがたシャワーを浴びてきたからだろう。たっぷりとした健康的な髪は、漆黒の夜闇の所々に、銀色の流星群が流れている。微量の水分で全体がしっとりとしていて、否が応でもエロスを感じざるを得ない。

源氏物語で美女と謳われた玉鬘はそのおぐしにより、名が美髪のカツラを意味するまでになったそうだ。

女にとっての髪は色気を演出するものなのだろうが、この男に香子は無条件に降参してしまう。なにしろ全てに色気を感じてしまうのだ。髪にも使う言葉にも、そしてその体にも。

清潔なTシャツから浮かび上がる胸板を尻目に、再び林檎の皮をむき始めた。季節は間も無く11月というのに、今朝はやけに生暖かい。

「父が亡くなったばかりないじゃない。そんな提案できるわけないわ。」

香子の声は少しかすれていた。父親の逝去に伴うドタバタによって、数日の間にすっかり気疲れを起こしていたのだ。

「それなら僕が電話で伝えておくよ。今の由紀子さんと君にはそれが必要だと思うんだ。」

「だって… カイはどうするのよ。」

「カイのことは心配しなくていい。僕がいるじゃないか。」

香子は次の言葉に詰まってしまった。相続の手続きやらは、生前の父が困らないようにと段取りしてくれていたし、確かに行けないことはない。

だが、しかしー…

「うんと遠くに行っておいで。」

「うんと遠く?… そんな酷いこと言わないで。」

不本意な言葉を放たれたことに対し、梶は少し驚いた様子だった。

「酷い?なぜ?」

「… わかってるくせに。」

この男は残酷なまでに純粋なのだ。それゆえに多くの女を不思議な力で惹きつけてしまう。自宅を離れたらどうなるかは容易に想像できた。突如として嫉妬心が沸き起こり、香子は己の無防備な悶えに静かに震えた。

ややあった後、梶は返事をする代わりに、手に持っていたケトルをゆっくりと置いた。

フィルターから抽出されるコーヒーの雫が、カップの中に不規則に落ちる音だけが聴こえてくる。

無言のまま梶が香子の右背後に隙間なく密着すると、石鹸の清々しい香りが香子の鼻腔を刺激する。梶は白く細長い指の間からペティナイフをするりと抜き取り、シンクの中に放り込んだ。

ガコンッという無機質な音と共に、上半分の皮が剥かれた林檎が、決まり悪そうに香子の左手に残った。上半身裸で外に放り出された哀れな己の姿を連想してしまい、思わず失笑してしまう。

「皮なんて剥かずに、そのまま食べたらいいのに。」

梶が香子の耳元で囁いた瞬間、その顎に手を添えたと思うと香子の唇を奪った。その拍子に林檎はキッチンの天板にごろんと鈍く転がった。その後は果実と引き換えに、お互いの瑞々しさを味わうかのようなキスがしばらく続いた。

梶がふとキスを止め、香子の瞳の奥を見つめる。すると今後は素早く背後に立って香子をきつく抱きしめた。隆々としたものを臀部に感じた瞬間、香子は少女のようにまごついた。

その直後、紺色のスカートはフワリと捲り上げられ、それまでの長々としたキスから一転して全ての進行がつつがなく執り行われた。香子は夫の存在を感じるだけで、呆れるほどに完璧な状態になってしまうのだ。

すると、物陰から一匹の猫が顔を出した。そして情事を一瞥すると、さっと奥のほうへ行ってしまった。

続きは、2025年1月14日 満月の夜 更新予定。
次回も香子編!飼い猫と梶との関係性に迫る!

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