月の裏側 – 第21夜 - 骨と未亡人

前回のあらすじ
香子はパーソナルジムで自分の体重と同じくらいのバーベルを持ち、危なげながらスクワットをしていた。
力の限界に達した香子に対して、トレーナーらしき男が香子の身体をまさぐり愉悦に浸る。
27歳のその男との出会いは、父が死んだ年に、母と二人で出かけた旅先だった。


今夜の場面は、香子の父 幹雄の葬儀の日に遡る。

暗がりの薄ら寒い部屋は、がらんどうな空間だった。
その中でも唯一、中心部にはどっしりとした骨あげのための台が位置し、その上に青白い光が天井から降り注いでいる。

そして、荼毘にふされた香子の父の遺骨が、暗闇の中から茫と浮かび上がっている。まるで冥界の片鱗を覗き見ているようだ。

ー ” 死 ” にかかわる想念は、人間の恐怖心が生み出したつくづく身勝手なものだな ー 

香子は生前の父の言葉を思い起こしていた。そう、これは所詮、遺された人間が死を認識するために執り行う儀式と思えばいいのだ。

気が付けば、夫の梶が母を気遣うように骨あげ台へ誘導している。香子はその後をついていくように台へそろそろと近寄り、遺骨をじっと見つめた。

それは驚くほど生前の骨格をとどめていた。香子がその様子に感心している間に、台を取り囲むように葬儀の参列者が並び始めると、どこからともなく、

「太くてしっかりした骨ねぇ。幹雄さんの一本気な性格を表してるみたいだわ。」

親戚の誰かが囁く声が聞こえた。

血肉はさっぱり姿を消しているから、人間を構成するほとんどが有機物であることを改めて思い知らされる。
そして、この無機物の残骸。顕界で確かに存在していたことを記すためにあるのだと、骨から発する熱気が無言で主張している。

「思い出した… 」

茫然自失の母が、独りごちるかのようにふと呟いた。

「昔は体という漢字を、骨が豊かと書いて” 體(からだ)” と読んだのよ。」

すっかり気落ちした未亡人は、「そういう時代あったわねぇ、由紀子さん」という合いの手にも微塵も反応を見せない。

香子が学生時代の頃、母はどちらかというとふくよかな体格だった。しかし、母の喪服の袖から伸びる腕は、今や痩せ細っていて皺が寄り、筋張っている。

幹雄が糖尿病を発症したのは、およそ20年前のことだった。結婚当初から堀越家の遺伝的体質は由紀子にとっても既知の事実であり、あれこれと予防策を講じていた。しかし、発症してしてしまったのは中途半端だったからだと自分を責めると、食事を徹底的に健康志向に改めたのだった。

その生活のおかげで父の病状は落ち着いたが、食事制限で母の体型もまるっきり別人のように変わった。己の生涯を捧げた夫を失った女の余生を想像すると、香子はにわかに末恐ろしさを感じた。それは、母に対してではない。自分自身の行く末に対してだ。

収骨の儀が滞りなく完了すると、母が位牌を持ち、香子が骨壺を持った。

骨上げの際、熱を帯びたそれは、壺の中に入れられた後、更に桐箱にも入れられたが、それでもどことなく生前の父のぬくもりのような温かさを感じ取った。

できることなら母は位牌ではなく、これを持つべきなのだろうと思った。しかし、次第に放熱してゆく経過を味わうのは、それはそれで酷なのかもしれない。

遺影を持つ夫の手元に目を遣ると、写真の中の父に微笑みかけられているような気がした。

母と遺影を持つ夫の間に立ち、己の胸に父を抱き、参列者に一礼をする。
結婚式以来の正式な家族行事だった。

続き▶︎ 第22夜 | 半裸の林檎と濡れた髪

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