月の裏側 – 第18夜 - 不健康な妄想とサラダボウル

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そもそも高橋を昼食に誘ったのは、古巣にいた頃の、慌ただしくもある意味で平和な日々がやたら懐かしく、また、恋しくなったからに他ならなかった。梶のアシスタントとして異動して以来、すっかり調子が狂ってしまったのだ。わずかの時間でも元の感覚に戻り、平常心を取り戻したい一心だった。

レタスや玉ねぎを小気味良く音を立てながら食す高橋の姿を見つめながら、ラーメン屋よりもこちらのほうが良かったかもしれないと思えた。整然としていて清潔だし、何よりゆっくり会話が出来る。

「高橋くんが健康志向だったなんて、知らなかったな。細いのはただの体質かと思ってた。」

「健康志向って言うのかなぁ。単純に好きってだけかと。それに、そういうヤツ多いですよ。酒に興味ないヤツも多いし。」

「そうなんだね。私の世代と随分違うなぁ。若い頃の好みとか、特に。」

およそ一回り離れているというだけで、そこまで価値観が異なるものか。逆に一回り上の世代の価値観とは、さほど隔たりを感じないのに… などと由羅は不思議に思いながら、サラダボウルを食べ進めた。

するとしばらくして、高橋のフォークを持つ手が止まった。

「正木さんって、運動してます?」

「何、急に。」

「大学の頃からつるんでるヤツがいて、パーソナルトレーナーしてるんすけど。そいつが、みんな日常的に運動しなきゃダメだっていつも言ってて。」

「たぶん正論ね。ただ、継続が難しいのが現実だけど。」

この食事だって継続は難しいのよ、と由羅は心の中で皮肉った。健康に気を遣った習慣が大事なことくらい、四十路にもなれば分かっている。しかし、現実はそうはいかないのだ。

高橋は淡々と続ける。

「そいつ、元々はお客さんだった年上の女の人といい感じらしくって。相手は確か…40代半ばだったかな。思い詰めるようなタイプの人だったらしいんですけど、筋トレしてるうちに前向きな性格に変わっていったとかで。運動はどうやら精神力を高めるみたいですよ。」

「それって… 運動でもして精神力を高めろって、私にアドバイスしてるつもり?」

「いやいや、滅相もない。この話で気にして欲しかったのは、正木さんだって、だいぶ年下のイケメントレーナーといい感じになれるかもしれないってことです。ワクワクするでしょ?」

「何おちょくってるのよ!」

高橋の冗談はこれまで聞いたことがなく驚いたが、かつての無愛想な後輩が珍しく笑顔を見せたことが何故だか嬉しかった。

食事を終えて店を出てみると、暖かな陽の光が木々や路面など辺りを満たしている。

「ちょっと走りませんか?」高橋が不意に言った。

「はぁ?こんなオフィス街で?」

「食後が一番脂肪燃焼しやすいらしいっすよ。」

「嫌よ。食べたばかりで走ったら、絶対に気持ち悪くなるわよ。」

「それじゃあ、ワンチャン、あの交差点のところまででいいんで。正木さんの靴、ヒールないし、全然いけるでしょ。」

返事をしようにも、気がついた時には、高橋が軽快に走る後ろ姿が視界の中に入っていた。

まったくもって、梶といい、成美といい、高橋といい、まるで意味が分からない。

観念した由羅は、足早に高橋の後を追いかけた。マキシスカートの裾が足元をくすぐるかのようにひらひらと舞った。

続き▶︎ 第19夜 | 美しさと正しさ
この物語はフィクションであり、実在の施設・団体とは一切関係ありません。

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