月の裏側 – 第18夜 - 不健康な妄想とサラダボウル

前回のあらすじ
裕福な家庭に生まれた謎の女、香子。その名は「こうこ」と読むが、父からはココ・シャネルから引用された「ココ」という愛称で呼ばれていた。
16歳のある日、父からの紹介で2つ年上の男子美大受験生のために全裸のデッサンモデルを務めると、その後は自然な流れで処女を明け渡した。その男から「かおるこ」という新たな愛称を付けられた香子は、生まれて初めて自我を認識する境地に立つ。
その男子美大受験生とは、若かりし日の梶だった。

あの、と高橋の背後から声をかけた時、振り返ったその表情には”意外”の文字が浮かび上がっていた。

「あ、えっと。忙しいよね…?」

由羅が遠慮がちに聞くと、高橋は着席したままチェアを由羅の方向にやや回転させた後、まるで顕微鏡に映る微生物を観察しながらかのように、「忙しいのかと言われれば、そうですけど」と、慎重に答えた。

「たまには外でお昼は、どうかなって思ってしまったんだけど… 」

「メシ?今からっすか?」

普段から飄々としている高橋が驚きの色を見せたので、由羅は慌てて胸の前で両手を振りながら「もっ、もちろん無理には誘わないわよ。」と、遠慮がちに言った。

何しろ年末のこの時期の総務部は ”全社クリーンオフィス” を取り仕切っていて繁忙期だ。そのため、高橋に多くのタスクが課されていることは容易に想像できた。

一年前のこの時期の由羅といえば、休憩時間を削ってまで必死で業務をこなしていた。コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチを齧りつつ、午前中に溜まったメールやチャットをさばくのが常だった。少しでもやるべきことを消化しなければ、雪だるま式に業務が溜まってしまうからだ。

時短勤務者とは言え、仕事を押し付けて周りに迷惑をかけるわけにはいかない。常に努力している姿勢を、誠意として見せなければいけない。周囲からの信頼を得ることこそが、由羅の美徳なのだ。無論、そのような状況では高橋と昼食を悠長に摂るなどの発想はなく、教育係として隣に座る若者に発破をかけていたのだった。

ところが自分が異動転出した途端、休憩に誘うだなんて…と、いくばくかの後ろめたさを感じつつも、高橋という男は、仕事に対する姿勢が自分と丸っ切り逆であることも分かっていた。

高橋はゆっくり立ち上がり、いいっすよ、と、なんの躊躇いもなく平然と言った。予想通りの展開に由羅は安堵した。

高橋が隣に座る後輩(その席はかつて由羅の席だった)に、メシ行ってくるわ、と声をかけたので、由羅は高橋の視線の先をチラリと見遣った。 

高橋の後輩、すなわち由羅の入れ替わりの人物とは、一度だけ挨拶をして以来だった。記憶によれば、確か名前は麻耶(まや)といった。

麻耶は薄ピンク色の薄手のニットとグレーのプリーツスカートを着ている。タイピングを止めた彼女は、肩よりもやや短めの髪を耳にかけながら高橋を見上げて、はい、と一言、簡潔に答えた。

新卒社員1年目のローテーション先として総務部へ転入してきた若い女は、未熟さのようなオーラが色濃く残っていた。

それを隠すかのようにファンデーションがしっかりと施された顔に、眉毛が隠れるほどの前髪が垂れている。

垂れ目がちの二重瞼の目元にはうっすら涙袋が描かれており、薄唇でありながら触れば ぷるん と音を立てそうな瑞々しいリップは、ことさら動物的メスを象徴しているようで、奇妙に官能を刺激する危うさを内包していた。

麻耶は視線に気付いたのか、由羅に目を合わせるなり静かに会釈すると、再びパソコンの画面に向き直った。

高橋からの指摘に由羅が動揺するわけとは
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