月の裏側 – 第17夜 – ココとカオルコ

前回のあらすじ
梶の思わせぶりな態度や過去の記憶を想起し、動揺しながらも甘美な感覚に酔いしれる由羅。
梶と成美が楽しげに笑い合う姿を見て、ついに2人の仲を問い正すが、梶から結婚にまつわる想念を指摘され絶句してしまう。
そんな由羅に対して梶はシガールを介してキスをせんとするかのような体勢を取る。「考えないで、感じること。」という業務命令を思い出させるためだった。
第17夜の場面はBACKSIDE BARから離れ、新たな登場人物の女にフォーカス

花瓶にたっぷりの水をやったあと、香子は1本のアマリリスを見つめた。

太くまっすぐな茎の上に、大ぶりで艶やかな深紅色の花を2つ付けている。

ギリシャ語で ”輝かしい” という意味を持つそれは、名をフェラーリと言うらしい。

©︎Piper John. All rights reserved, DACS & JASPER 2024 E5720

香子の父、堀越幹雄が生前愛したフェラーリも似たような深紅色だった。

1980年代後半、日本経済のバブル期において、先代から細々と営んでいた不動産家業は、御多分に洩れず空前絶後の好景気に沸いていた。

当時の資産家や経営者がそうであったように、堀越もまた高級外国車を愛好した。ところが彼は多くの車を同時期に保有することはせず、フェラーリF40のほかにはポルシェ911カブリオレの2台の車を、72歳のその生涯を終えるまで、こよなく愛したのだった。

また、堀越は過剰融資や不動産価格の高騰に懐疑的な姿勢を示した当時にしては珍しい経営者でもあった。それだけに銀行や同業者からは石橋を叩いても渡らない詰まらぬ奴という烙印を押され、社交の場では常に浮いた存在だった。

かくしてバブルが崩壊すると、それまでの保守経営が功を奏し、大きな痛手を被らずに済んだわけだが、かといって、己のことを冷笑していた者達が一転して苦難に喘ぐ姿を見て嘲笑うようなことは決してなかった。

香子の母、由紀子はそんな泰然自若な夫を尊敬した。一人娘の香子に対し、将来は堀越のような男と一緒になってほしいと願うくらいだった。

堀越は香子のことを ”ココ” と呼んでいた。香子の読み方が「こうこ」ということもあって、洒落っ気でココ・シャネルから引用したものだった。

一方、学校や病院などではことごとく「きょうこ」と誤読された。香子は物心付いた時から自分の名は「こうこ」でもあり「ココ」でもあり、ましてや当時いた家政婦からは「お嬢さま」と呼ばれていたこともあって、香子にとって己の呼び名はよく変わる山の天気のようなもので、誤読された「きょうこ」さえも自分の一側面とすら思えた。

 

しかし、香子が16歳の時ー。  

 

「これまで ”かおるこ” って呼んだ人はいたかな?」

「かおるこ… 読めなくないわね。でも、そういう人はいなかったわ。」

「そうか。それなら僕は、”かおるこ” と、君のことを呼ぶよ。」

 

生まれて初めてセックスした相手からそう言われて以来、香子は初めて ”完全に “  “かおるこ” になった。

その相手の男は香子の2つ年上で、当時は美術大学への進学を目指す受験生だった。堀越の友人の息子でもあるその男は、名を梶 泰介と言った。

香子が梶と初めて出会った日に回帰する
次のページへ

1 2

コメント

コメントする

目次