月の裏側 – 第16夜 – 業務命令、再び

成美はきょとんとした後、食べかけのシガールを手元の小皿にそっと置くと平然とした表情で答えた。

「どうして、って… コミュニケーションみたいなものじゃない。」

「え… 全然意味がわからないです。コミュニケーションをとるために人間は言葉が発達したのですよ?」

初めは吃り気味だった由羅だったが、スラスラと言葉が出てくる。すると今度は梶が口を開いた。

「確かに、一理あるね。」

「一理あるね、って…  もしも私が夫に同じことをされたら、裏切り行為って思ってしまいます。 」

「裏切り行為か… 何に対してそう感じる?」

「何に対して…?もちろん夫に対して感じますよ。だって、 そもそも結婚ってそういうものですよね…?」

「だとすると君が裏切られたのはご主人じゃない。」

「は…? 」

「“結婚”に対する君自身が抱く思想に裏切られたんだ。」

由羅は何を言われたのかがわからず、絶句してしまった。次の言葉が全く出てこない。

 

ー “結婚” に対する思想 … ?

 

由羅が呆然としていると、突如ドアがガチャッと音を立てた。中年期の2人組の男女が入店してくると同時に、真冬の冷たい外気が由羅のマキシスカートからのぞく足首をかすめた。

成美がカウンターから出て、奥へどうぞと言いながら、梶と由羅の席の斜め後ろの方に位置するテーブル席へ案内する。常連の客らしくも久々の来店だったようで、少し遅れて拓海も席まで出て挨拶している。

source|https://niewmedia.com/series/nagira/016872/3/

「業務命令のこと、覚えてるかな。」

梶が再び言葉を発した。無人のバーカウンターには由羅と梶の2人だけが着席している状態だ。

「考えないで、感じること。 」

そう言うと、梶は手に持っていたシガールをタバコのように口に咥えた。ところが、さっきまでのような戯けた様子はなく、普段の冷静沈着な梶である。

ー なんだろう…

不思議に思ったその瞬間だった。由羅の視界に映る全てが梶の顔で占領されたのだ。

ー えっ… ?

反射的に上半身がのけぞりそうになると、いつの間にか梶の左手が由羅の後頭部を支えるようにしていて、その動きを封じ込めている。

乱視の由羅にとって、わずか10センチ先に見える景色は、唯一”目”という機能で確認できる真実の世界だ。コンタクトレンズをしていても、遠ければ遠いほどに物体が重なって見えるのだ。

それが今や、暗がりのせいでよく見えなかった梶の眼鏡越しの瞳に、自分の姿がはっきりと映り込んでいる。

それだけではない。

微かな香水の香りが鼻腔に通ると、脳が瞬時に解析してあの日と同じ香りだと訴えてくる。
するとこれはもう白昼夢などではなく、現実に起きていることなのか。

とうとう由羅の唇にシガールの先端が触れると、2人の体勢はキスをせんとするかのような格好となった。甘いバターの芳香がいたずらに空に漂う。

流れに逆らわず震えながら唇をそっと開くと、焼き菓子がそのまま口内に静かに侵入してきた。
慌てて噛み、口を閉じる。
その直後、舌の上でシガールの欠片がジワリと溶けた。

由羅の肉体はいつの間にか巨大なポンプに占拠され、ひっきりなしに大量の血液がどくどくと全身を巡っている。

続き▶︎ 第17夜 | ココとかおるこ
この物語はフィクションであり、実在の施設・団体とは一切関係ありません。

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