月の裏側 – 第16夜 – 業務命令、再び

前回のあらすじ
梶が寄越してくれたシガールを開封する過程においても、由羅は梶や成美に対する嫌悪感や抵抗感に苛まれていた。
しかし話の流れでホットウィスキーを飲むことになるとようやく張り詰めた気持ちが徐々に解れていく。
そんな折、成美がなぜ由羅をアシスタントに呼んだのかを梶に尋ねた。それは由羅も密かに気になっていたことだった。

梶は左隣に座る由羅と自分の狭間のあたりの机上を無言で眺めていた。

「なぜだったかな…」

そして、ややあった後、梶が独りごちるようにそう呟いた。

「そうやってとぼけるのね。」

成美が呆れた表情を浮かべている姿を横目に由羅も小さく肩を落とした。

気を取り直すが如く温かいウィスキーを再びゆっくりと咀嚼しながら、梶という人はあらかた予測した通りに行動するような人物ではないのだろうと思う。

例えば、シガールを不意に買って寄越してくれたように。

かつて由羅が太一と同じ会社で勤務していた時、部署内で2人の交際の噂が立ったことがあった。

実際、その噂が立ち始めた頃には交際の仲に発展していた。しかし社内の宴席でその話題が上がり茶化されることがあれば、太一は常にきっぱりと否定した。

とぼけるのではなく、きっぱりと。

もっとも太一にとって事実を知られることに対して一切の差し支えはなかった。単にプライベートを仕事に持ち込むことを毛嫌いする由羅の気持ちを汲んでのことだったのだ。

他方で由羅は噂が立ったこと自体にえも言われぬ嫌悪を感じた。人々が他人の色事を敏感に感じ取る所以に、人間という薄気味み悪さを感じていたのだ。

細心の注意を払っていたつもりなのに。

そんな束の間の回想に耽っているうちに、俯き加減だった梶が視線の先を変えたような気配がしたので由羅がそっと右手を振り向くと、梶は会話をしていた成美ではなく由羅のほうに黙ったまま視線を送っている。

2人の目が合った瞬間、梶は何らかの意思を持ったような小さな笑みを浮かべた。暗がりの中、橙色の灯が梶の眼鏡のレンズに反射していて、その瞳を明瞭に捉えられない。

だがその瞳の奥から、 

ー 君なら分かるだろう?

そんな風に言われているような気がした。
  

自分の人生もこれからだと思いませんか?
正木由羅さん。

初めて会った時に言われた言葉が唐突に蘇る。

そう言えば、梶はたった1度しか会わなかった自分のことを覚えていたようだった。

ボードルームの隅で取締役会の設営をしていただけで、会話もろくにしてもない自分のことを。

ー なぜって、そんなの分かるわけないじゃない…

鼓膜を通りぬけ全身に響いたやけに瑞々しい声。
微かな野生味を帯びた香水の香り。
やや厚みのある手のひらから伸びる指先の繊細な感触。

密着した時に記憶された梶に関する情報が脳内で生々しく再現され始める。

前を向き直りウィスキーを口にする眉目秀麗な男の横顔を見つめながら、甘ったるさと危うさがごちゃ混ぜの心許ない感覚を覚える。

鼓動の高鳴りを感じて、由羅は思わずグラスを持つ手に力を込めた。まるでグラスが現実を繋ぐアンカーかのように。

梶の意外な一面が…
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