前回のあらすじ
梶が既婚者であることや成美との関係性に大いに動揺する由羅。
レコードが終わり静まり返ったBACKSIDE BARの中で、いかに異動発令を発端に感情を揺さぶられているかを自覚して微かな恐怖を覚えた。これまでいかなる物事も論理的に捉え、理性を働かせ、生産性が低下するような感情に蓋をして長らく生きてきたからだ。
そのため成美に次のレコードのリクエストを聞かれるも、冷静さを演じきれずに棘のある返答をしてしまうと、思わず落ち込んでしまうのだった。対して、梶がかつての米国 有名ジャズトランペット奏者 チェット・ベイカーをリクエストする。
成美が選んだのは「ランデブー」というレコードだった。それは拓海が学生の頃、フランスの蚤の市で一目惚れして入手したものだと言う。ジャケットの写真は、幻想的な風景の中、赤いドレスを着た女が一人で佇む印象的なものだった。
レコードが流れ始めた時、成美の目に濃紺色の紙袋が目に入った。それはBARへ向かう途中、梶がくれたヨックモックだった。
「梶さんからいただいたんです。昔、母と南青山に来るとよくお店に立ち寄った話をしたものですから…」
成美がヨックモックの紙袋に視線を送っているので、由羅はやれやれといった感じで答えた。
「あら、梶さんが?ふぅん、優しいのね。」
梶と由羅の関係を詮索するような言い回しだった。
そんな成美のなんでもあからさまな様子を見つめて、みっともない、と感じた。
ー 人のモノに興味を示すだなんて、みっともない。
ましてやよその女性(ひと)の男に興味を示すだなんて。
とはいっても、梶から半ば強制的に受け取ってしまった焼き菓子は、隠すつもりも独り占めする気も更々なかった。由羅は紙袋から中身をがばっと取り出して、カウンターテーブルの上に置いた。勢いが余ったせいか、箱を置いた時に乾いた音が鳴り響いた。
どことなく怒りを滲ませる由羅の様子を無言で見つめていた梶が、開けてみて、と小さい笑みを浮かべて囁いてくる。
その表情が拾われた子猫をなだめるかのようだったので、由羅は自分が弱者のように扱われたような気がした。もういっそのこと包装紙をビリビリと乱暴に破ってやりたい衝動に駆られる。
ー 他人に干渉しても、干渉されても、どちらも駄目。貴方はいつも毅然としていなさい。ー
複雑な状況に置かれた時、いつも由羅は母の言葉を思い出す。
今しがたの衝動を抑えて包装紙をつとめて丁寧に開くと、スチール製の四角い缶が姿を現した。
クリスマス仕様のその缶は、オーロラが光り輝く夜空の下で小さなサンタがプレゼントを運んでいる可愛らしく幻想的な風景が描かれている。
由羅はうっすらと既視感を覚えた。
ー どこかで見たような…
四辺に貼られた封缶テープを剥がしながら、記憶を辿らせる。
「… 素敵ね。」
傍らで由羅の手元を見つめる成美が興味深そうに感想を述べた時、ちょうど全てのテープが剝がされると、由羅は気が付いた。
ー あぁ… さっきのレコードジャケットの雰囲気と似ているのね。青紫の美しい背景とかシンボリックな赤とか。
開いた拍子に中身が飛び出さないよう慎重に蓋を開けると、シガールが缶の箱の中で行儀よく整列していた。華奢で繊細なそれらは蓋に描かれている絵と同様の個別包装が施され、普段よりもうんと華やかな印象を放っていた。
まるでプレゼントを心待ちにする子供たちに見える。
お行儀の良い子、聞き分けの良い子にならなくては、サンタクロースからプレゼントをもらえないと信じる子供たち。
素の自分でいては、決してプレゼントはもらえないという恐怖を抱いている。
「Cigare!」
成美が感嘆してフランス語風にシギャーと発音すると、拓海は密かに右側の口角を上げた。
「お酒と合うかどうか分からないのですが、よろしけば、どうぞ…。」
差し出されたシガールの詰め合わせに目をやっていた梶が、手元のウィスキーに視線を移して「シガールのバターの風味とスコッチウィスキーか… 案外合うんじゃないかな。」と呟いた。
「そうよ、バターを入れたホットウィスキーは最高だもの。」
成美からも意外な反応が返ってきたため、由羅は「そうなんですか?」と言って少々驚いてみせた。正直、酒に合うかどうかどちらでも良かったのだ。
「ユラさん。」
聞き慣れない声で自分の名を呼ばれたので急いで声の主に顔を向けると、拓海と視線がぶつかった。
「よかったらホットウィスキー、召し上がってみますか?」
拓海の瞳がしっかりとこちらを向いている。美しい放物線を描く額の下に端正な眉毛、澄み切った眼差しに微かな戸惑いを感じる。
ー ホットウィスキーか… 酔いそう…
これまでハイボールを飲んだことはあっても、特段ウィスキーを好んでいたわけでなかった。しかし入店して以来、未だに注文を決め切れていないのに違和感があることは自覚していた。
隣に座る上司に妻がいて、仕事仲間でもある女と公然とキスする仲。
一方、うろたえる自分は拾われた猫のような弱者扱いだ。
「では… お願いします。」
ある種のやぶれかぶれ感が由羅の頭を縦にうなずかせた。
「拓海、私にもお願い。」
すかさず成美が甘えた様子で拓海に声をかける。
お二人分ですねと言いながら、拓海が心なしか嬉しそうな表情を浮かべてホットウィスキーを作り始めた。
由羅は徐々にリラックスモードに…?
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