月の裏側 – 第14夜 – 一目惚れの女とランデブー

もっとも成美は曲のリクエストを由羅に聞くまでもないことはわかっていた。さっきから由羅の表情が冴えないのはわかっていたし、それも仕方のないことだとわかっていた。

「梶さんは?」

成美がターンテーブルから LP盤を取り外し、ジャケットに戻しながら聞く。

ややあって梶はカウンターに着席したまま成美のほうに振り向き、不協和音を払拭するように「そうだな、チェット・ベイカーは?」と軽やかに答えた。

「This!Chet Baker!いいわね、好きよ。セクシーよねぇ、彼。」

成美が名案と言わんばかりに英語を交えながら同意すると、大量のレコードがひしめきあう棚から選別し始めた。

すると程なくして1枚のレコードを梶に差し出した。

「これはどう?ランデブーですって。」

「あぁ、それ、フランスの蚤の市で見つけたやつです。」

拓海が懐かしむような表情でレコードに視線を送りながら声を発する。口数が少ない印象の人物だけに、わざわざ伝えてくるとは何らかの想いがあるのだろうか。

「蚤の市?レコード屋じゃなくて。」梶が指摘する。

「はい、蚤の市で偶然。僕が大学生の時なのでだいぶ前ですけどね…。実はそのジャケットに一目惚れして買ったんですよ。その時はジャズのことたいして知らなかったし。」

「うん。ジャケットのデザインが美しいね。」

ー 一目惚れ…? ばかばかしい…

興味もなく虚ろに会話を聞いていた由羅だったが、 ”一目惚れ” という甚だ浅はかな単語に反応して思わず梶の手元に視線をやる。すると幻想的な写真が瞬時に目に飛び込んできた。

source|https://www.discogs.com/ja/master/701537-Chet-Baker-Jean-Paul-Florens-Henry-Florens-Rendez-vous

青紫がかった低潮の海岸。巨大な岩壁の姿が水面に映っており神秘性を増している。すらりとした細長い腕を顕にした赤いワンピースの女の姿も妙に印象深い。

「一目惚れか… 何度でもしたいものだね。」

口角を上げながら臆面もなく梶が答える。

ー よくもしゃあしゃあと…

既婚者にも関わらず成美と抱擁しキスする所以について問うこともできない由羅は、仕方なく心の中で悪態をつくしかなかった。

source|https://www.discogs.com/ja/master/701537-Chet-Baker-Jean-Paul-Florens-Henry-Florens-Rendez-vous

梶はジャケットを裏返して曲目などを眺めたのち、「いいね、かけてくれる?」と言って、レコードを再び成美に手渡した。

「成美さん、丁寧に扱ってくださいよ。」

「はい、はい。一目惚れした女だものね。」

成美が拓海の忠告を軽くあしらいながら楽しげにLP盤をターンテーブルに乗せた。

パチパチと小さなノイズがしたかと思うと、ピアノとドラムのブラシ音と共に優しく軽快な鼻歌のような歌声がスピーカーからスルスルと流れ出てきた。しばらくしてトランペット音が心地よく店内に響きわたる。music|BLUES FOR INGE

いいね、と梶が嬉しそうにウィスキーを口にしながら言った。

満足気な面持ちで成美がバーカウンターに戻らんと由羅の背後を通った時、濃紺色の紙袋が置いてあるのが目に入った。

「あら?ヨックモック?」

続き▶︎ 第15夜 | シガールとホットウィスキー
この物語はフィクションであり、実在の団体とは一切関係ありません。

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