月の裏側 – 第13夜 – モーセとローストビーフ

前回のあらすじ
成美がいるバーへ向かうため、東京・南青山の街をヨックモックの紙袋を腕にぶら下げながら梶と歩く由羅。梶の自由な雰囲気と自分の不自由さとを対比すると、二人の間に流れる見えない川のような存在を思う。

根津美術館やBlue Note Tokyo の横を通り過ぎた後の小さな路地裏に入ると、アイビーがびっしりと生い茂る3階建の建物が由羅の眼前を支配した。その3階にBACKSIDE BARがひっそりと存在していた。


ジャズの流れる間接照明のみの薄暗いバーに入ると、日中とは別人のような妖艶な成美が出迎える。するとすぐさま成美は梶を抱擁し、二人はキスをする。由羅の頭は真っ白となり、目を逸らすべく成美の腹部に視線を移すと、その美しいへその下に小さなドラゴンのタトゥーが描かれているのが視界に入ったのだった。

小さなドラゴンには2枚の小さな羽が背中に生えていて、タトゥーの真ん中に据えられたクロスを守るかのように長い体を柔らかに巻き付けている。

その色味はシルバーで彫られているため一見目立たなそうでいて、しかし不思議と際立っていた。

梶と成美が抱き合い唇を重ね合わせている事実をも呑み込み、あたかも全ての出来事は必然であると諭すかのような佇まいを呈している。

「梶さんとは、セックスしたの?」

それにしても、あの日の成美のあの言葉は一体なんだったのだろうか。

 燃え盛る紅葉に彩られた箱根の山

  風神雷神図が眼前に押し迫る足湯処

   化粧っけのない健康的な眼差しの成美

あの日の光景がぐるぐると頭の中を巡り巡ると、息が詰まりそうになった。

気を紛らわそうとレコードラックに再び向き直るが、レコードたちも視界に入らないし、スピーカーから流れてるはずのジャズの音(ね)もまるで耳に入ってこない。

ー 二人がそういう関係なら来なければよかった…

両眼を固く瞑りながら、襲い掛かる失意の波を味わう。

すると、ふわりと吐息のような微風が由羅の耳元に触れたような気がした。驚き肩をびくりと震わせ両目を開いた瞬間だった。

 

「いらっしゃい、ゆらさん」

 

背後から成美の柔らかい声が耳元の近くで響いた。

それは小鳥が歌うような口調だった。
そして、その瞬間はまるで砂漠に一人残されたところを女神に見つけてもらったような、不思議と救いにも似た感覚だった。

緊張気味にゆっくりと振り返ると、成美がすぐ傍らに立っている。

シルバーグレーの髪、ブルーマスカラの睫毛、グレーのアイシャドウ、ダークレッドのルージュ、陶器のようなつるりとした肌、無駄のない曲線の身体。

暗闇と小さな光の間に佇む成美は完璧な美しさを放ち、恐ろしいくらいだった。

カラーコンタクトであろう淡いグレーの瞳は益々人間離れした雰囲気を醸し出しており、もはや自分と同じヒトなのだろうかと、由羅は思わず唾をごくりと吞み込んだ。

「さぁ、座って。」

成美はカウンターのほうに腕を伸ばした。

その腕の先に見える梶の姿は、何事もなかったかのようにカウンター席に着席せんとするところだった。

由羅の困惑は更に続く?
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