月の裏側 – 第2夜 – 梶と成美

それは今年の蒸し暑い初夏の頃だった。由羅は役員が集まり出す前に、ボードルームで機材や資料の準備などをしていた。ふと顔をあげてみると、曇りガラスの向こう側から人影が近づいてくるのが見えたので、それまで中腰で作業していた姿勢を正した。役員の一人かもしれないと思ったからだ。開け広げていたドアから、一人の男がボードルームの中を覗き込むような仕草でその姿を表す。

ウェリントンスタイルの眼鏡。そのテンプルを隠すように垂れ下がる前髪の一部は白と黒の狭間のような色味を呈している。流れるような鼻筋からごく自然に存在するほうれい線は、その男の人生が由羅のそれよりも一層深いもののように感じられた。その男のことなど、少しも知らないというのに。

男は部屋の中をぐるりと見回すと、由羅の存在に初めて気が付き、口角を上げると同時に、やぁ、と言った。その声は外見に比べ、青年のように瑞々しく聴こえた。

「あ…、えっと…。お、お疲れさまです。」

由羅は初めて会うその男が取締役会に関係する者なのかがわからず、口篭ったように挨拶した。

「梶です。こないだ執行役員に就任したものです。」

その男が、梶だった。

清潔そうな白いコットンのTシャツと麻のテーパードパンツ、そして、豊かな量の頭髪は首筋に辿り着くと小さく跳ねていた。Tシャツの下からでも伺えるやや厚みのある胸板と二の腕や、ビルケンシュトックのチューリッヒから覗く綺麗に切り揃えられた足先の爪。

そのようなラフなサンダル姿でも、会社の意思決定機関に参加することに対して、不思議と違和感を覚えなかった。健全な精神のもとにその男が当たり前のようにそこに存在していたからだ。物静かな笑顔をこちらに向ける梶に、由羅はただ圧倒されていた。

自転車のブレーキ音が右耳に静かに入ってきた。
その方向を見遣ると、濃紺色のクロスバイクを美術館の入り口付近の駐輪エリアに入庫する女の姿が遠目に見える。アイボリーのヘルメットを取り外す時、太陽の光がそれに少し反射したかと思うと、女は足早に由羅のほうへと向かってきた。

由羅はその場で立ち上がって女のほうへ向き直り、丁寧に会釈をした。

「正木さん…、だよね?遅れてごめんなさい!ライターの森山成美です。成美、って気軽に呼んでくださいね。」

成美が目の前まで辿り着くと、由羅よりも10センチほど長身であることがわかった。まるでファッションモデルのような容姿にも関わらず、成美の笑顔と話ぶりが人懐っこいせいか、ごく身近な存在に感じられた。

成美はシルバーグレーのカールがかったショートボブをしていて、深緑のダウンジャケットを着ていた。前髪は短く、眉毛は小さい顔に対してたっぷり存在している。化粧っ気はないながらもつるんとした健康的な肌に、口元だけは紅のルージュが引かれてあった。

「正木由羅です。良かったら私のことも、由羅って呼んでください。」

成美につい見惚れてしまいそうになる気持ちを抑えて、由羅も続けて自己紹介する。

「よろしく、ユラさん。珍しいお名前ね。素敵よ。」

成美はまた笑顔を見せると、今度はせわしなくブーツと靴下を脱ぎ出し、スキニーパンツの裾を引き上げた。

「それにしても、私たちの待ち合わせ場所を、足湯処に設定するなんて…。まったく梶さんらしいわね。」

独言るかのようにふふっと笑いながら細身の身体を大きく曲げ、足湯に浸かりながら由羅の右隣に腰掛けた。あぁ〜、やっぱり最高ね〜、と感嘆する成美に遅れて、由羅も再び腰掛ける。

成美が随分と気持ちよさそうにしている姿を見て、由羅も湯の感触を改めて意識してみようと試みたが、既に足元は生温く感じるし、ましてや成美の登場にどうしても気が取られてしまい、全くうまくいかなかった。

ふと視線を感じたので、右手に座る成美に顔を向けてみると、成美は組んだ足の上に頬杖を付きながら由羅を見つめていた。目が合うと、静かに口角を上げて、ごく自然に由羅に質問した。

「それで…、梶さんとは、セックスしたの?」

続き▶︎ 第3夜 | ランシとシンラ万象

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