後編|元吉原ソープ嬢 色街写真家 紅子を通して「性風俗」を見つめる

紅子作品で飛田新地を見つめる

料亭「満すみ」

写真2|現在廃屋となっている料亭「満すみ」
©︎ 紅子

満すみは1929年(昭和4年)に建てられた旧妓楼だ。1958年(昭和33年)の売春防止法施行以降は、「満すみ」という屋号で料亭を経営するも1990年代後半に廃業して以来、空き家となっている。紅子さんが特別に許可を取って撮影した内部の写真は、遊郭建物跡地が歴史的にも貴重なものであることを示唆している。

写真3|満すみのバーカウンターとダンスホール
©︎ 紅子

飛田遊郭は1918年スペイン風邪が世界的に大流行した時期に開郭したこともあり、厳しいスタートだったが、江戸情緒をベースに古今東西の文化を積極的に取り入れることで他との差別化を図ったことで知られる。中でも満すみは、昭和初期まだ珍しかったバーカウンターとダンスホールを併設したモダンな遊郭を象徴していた。(写真3)

写真4|満すみの表玄関は赤い絨毯が印象的。
当時使用されていた番台の隣には呼び鈴が。
©︎ 紅子
写真5|表玄関の看板。往時のサービス内容が伺える。©︎ 紅子

写真5は表玄関の看板。「お泊まりだなんて、寝るに寝れないから身体が持たないし、考えられません… 」と紅子さんは苦笑いする。それほどセックスワークが過酷であることを物語っている。しかし当時の娼妓(指定された地域で売春を許された女性)の多くは、親権者等による前借金の返済を条件に従事していたので拒否権はなかった。

嘆きの壁

写真6|飛田新地の通称「嘆きの壁」。
この辺り一体は取り壊されてマンションが建つという。
©︎ 紅子

前述の通り、人身売買契約のような強制労働を強いられていた遊女なので、当然脱走を企てる者もいた。当時の飛田遊郭には、遊女の脱走と娑婆(俗世間)との境界のために、四方をぐるりと囲む要塞のような壁が存在していたのだそう。いつしかその壁は地元の人からは「嘆きの壁」と呼ばれるようになり、今もその名残が残っている。

写真6は間も無く取り壊される予定の壁の一部。高さは5mほどで、かのベルリンの壁よりも高い。ここから先は俗世間ではありませんよ、と庶民の目からは威圧的に映ったことだろう。

なお、前頁の飛田新地マップ中央左手に位置する飛田交番は当時から設置されており、かつてあった遊郭の正門で客の出入りを鋭い眼光で門番が見張っていたようだ。何しろ客の中にはお尋ね者が紛れ込むことも多かったからだとか。そういった側面から、公娼制度が存在していたとも考えられる。

飛田会館

写真7|飛田会館の様子。左上は3階にある旧議場。戦時中は憲兵隊も使用していた。
右下は2階部分で、かつては後述の性感染症や結核の検査場だった。現在は提灯などの物置となっている。
©︎ 紅子

大正7年創業時には僅かだった遊女が、昭和初期には3000人を超えるほどの国内最大級規模となった飛田新地。その流れに比例するように増えたのが性病罹患者だった。

1937年(昭和12年)に飛田遊郭の組合組織の会館として建てられたのが飛田会館。屈強な鉄筋コンクリート構造の現代建築は、性病の蔓延と共に肺結核の大流行という時代に合わせて建てられた。戦時中は憲兵隊支所にも使われた歴史的建造物は、今もなお飛田新地の事務所として使われている。

写真8|飛田会館2階にある旧性感染症検査場。貴重な文化財である。
©︎ 紅子

写真8は飛田で働く娼妓の旧性感染症検査場だ。穴がくり抜かれた床の上に女性が立ち、医師が床下に待機し検査が行われたという。陽性判定の場合は、そのまま近くの診療所に直行する。

性病で命を落とすこともあった時代において、彼女たちの切実な想いは計り知れない。ある文献によれば、妓娼たちは願掛けのためにお揃いの着物を着用し、玄関先の出刃包丁を跨いで検査場へ向かったという。病気に罹り、働けなくなった者への扱いは劣悪なものだったようだ。

なお、性病検査は遊女の義務としての建てつけであるにも関わらず自費というルールがあった。現代においても性病感染予防の観点は、買春側の責任よりも売春側の責任が大きい。個人的に理解が困難な部分であり、潜在的に顧客である男性が上位で、性風俗従事者である女性が下位(あるいは弱者)である認識を植え付けているのではないかと考える。

 

以上は、当日受けた紅子さんによるご説明と今回を機に改めて調べてみた内容を纏めて、紅子さんの作品と共にご紹介した内容だ。背景等を知ってから作品を見るのと、そうでない時とは感じ方が異なると思ってのことだったが、あなたはどうだっただろうか。

多感な年頃の息子さんに今の活動を知られたらどうするの?
紅子さんの活動に対する姿勢とは…
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