はじめに
私は性風俗がどんなものかを知らない。
そもそも社会の闇として存在する同業界のことを、そこへ潜入すること以外の知る術もわからなかったし、実際には知ることすらをも避けてきた。なぜなら得体の知れないそれに対する偏見や嫌悪、何よりも恐れがあったからに他ならない。
しかし、Nina Novembre を立ち上げて1年経った今、ようやく性風俗を見つめてみようと決心した。
なぜなら、そこには人間社会の性に纏わる歴史、もっと言うと「性」の本質が隠れているような気がしてならないからだ。
きっかけをくれたのは、全国的に失われつつある遊郭・赤線などの歓楽街跡地を写真に残す色街写真家の紅子さん。
吉原の高級ソープをはじめとした風俗店に、13年もの長い期間身を捧げていた彼女。業界を知ったる張本人として撮影しているのかと思いきや、実はそうではないとも語る。
「私はこの撮影を執念でやっているところがある」
そんな彼女が言わんとする ”執念” は何から由来するのか。その執念は、昨年刊行して人気を博した写真集『紅子の色街探訪記』をもってしてもおさまらず、目下は第2弾となる写真集『紅子の色街探訪記2』のリリースに向けてクラウドファンディングが実施されている。
今や多感な年頃の息子を持つシングルマザーの彼女。業界引退から10数年の時を経て、これまでひた隠してきた過去を明かしてまで色街写真家として精力的に活動する所以とは。
紅子という人物を通して、「性風俗」を見つめることを試みる。決して性風俗を”知る”ことはできなくとも、まずは”見つめてみる”ことで、何かが見えてくるかもしれないことを期待して。
前編 -Before BENIKO- では、私が紅子さんに会うまでを、後編 -After BENIKO- では、紅子さんに会ったのちの性風俗に対する感覚の変化を記す予定だ。
Before BENIKO
風俗 という言葉を聞くと、どうも落ち着かない。
貪る男の性欲や搾取される女を条件反射で連想してしまい、えもいわれぬ憤りを感じるのである。女・子供の人身売買がまかり通るこの世界において、日本においては風俗業界こそが、その縮図ではあるまいか。
古代日本においては卑弥呼を代表とするような女首長は、3〜5割いたと推定されるほど性差が未分化であった。にもかかわらず、次第にあらゆる公的空間において性差に基づく区分が導入されると、女性が不可視化され、排除され、時には商品化されるようになった。
ところが一方で、かつての吉原遊郭における遊女最高格の花魁などは、多くの男をはべらせていたのも事実であろう。
女を支配したいという男の欲望(あるいは弱み)を掌握した女こそが、したたかで有能な女なのか?
哀しいかな真逆タイプの私は、冒頭のものとはまた異なる憤りを感じずにはいられない。
そう、搾取される側と搾取する側の複雑な絡み合いは、もはや単なる性別差を超えて、この世の仕組みを理解しがたいものにしているのである。
事実、今日では公然に顔出しをしてアイドル化する風俗嬢やAV嬢もいる。はたまた女性用風俗(所謂、女風)が、有名女性誌やファッション誌にスタイリッシュに紹介される時代だ。
とはいえ同業界は、一般的にはいかがしいものとして見られているのが実情であり、性の売買はあくまで必要悪として君臨しているのだろう。まがいなりにも「性」を表題に掲げている当サイトに対しても、複雑怪奇的な世間の反応を垣間見る日々である。
他方、この活動がご縁で、現役風俗嬢に話を聞く機会を得られると、彼女たちは嫌々やっているわけではなく、むしろ肉体を通したコミュニケーションを楽しんでいるという驚くべき現実を目の当たりにした。致し方なく風俗業界にいる女性がいるのも事実だろうが、それはそれとして恋愛感情を抜きにした性交は、総じて愛のない無味乾燥なものだろうと想像していたのだ。
ところが、である。
ひとりの風俗嬢の話によれば、男の自尊心を取り戻すべく誠心誠意の奉仕を施すことで、両者の間には言葉を超えたある種の信頼関係が生まれると言う。たとえ一時の間柄であろうとも、男女の惚れた腫れたといった刹那的なものとは明らかに異なる異次元の愛が存在するとでもいうかのようだ。
その時点で、私の風俗に対するこれまでの数々の思い込みや推論、あるいは女性視点の被害妄想は木っ端微塵に砕け散り、混乱と困惑に満ちた感覚に襲われたのだった。天候に例えてみると、狐の嫁入りの僅か5キロ先の上空にドス黒い雲が立ち込めているかのような一重に表現できないただならぬ感覚である。
いやはや、風俗とは何なのだろう。雲を掴むような想いだ。
そんな中、今年のある夏の日のことだった。元吉原ソープ嬢のフォトグラファーの存在を知った。色街写真家の紅子さんである。知人の紹介で、紅子さんの個展が開催中だと聞いたのだ。
ふむ、元吉原ソープ嬢…
そのような看板を敢えて掲げる女性とは、どのようなお人だろうか。
興味本位で調べてみると、YouTube・X・Instagramの合計登録者数が6万人をゆうに超えているではないか。しかも、48歳の時に一眼レフを購入し遊郭跡地を撮り始めてから、わずか3年ほどしか経っていないと言う。
ひとまずセルフポートレートで人物像を伺ってみると、実年齢には到底見えないほっそりとした色白の日本美人である。かの吉原において、若かりし日はその腕を撫していたに違いない。それにしても、元職場を写真に写すとは、一体全体どのような心境なのだろうか。
止まらぬ妄想を膨らませたまま Instagramで彼女の撮った作品を幾つか見てみると、その肩書き通りにカメラの被写体は、遊郭、赤線、青線 の名残りが残る地区や建築物であった。
そのどれもが、昭和レトロに潜むかつての人間の営みが色濃く映し出されている。ほとんど廃墟と化したそれらは決して美しいものではないが、かつての煌びやかな輝きの片鱗がどこかに落ちているかのようでもある。それは底知れぬ人間の欲情が、未だに猥雑な念としてその地に確かに息づいているからこそだろう。
写真を眺めながら、自分自身がいかに「性」という本質に真っ向から向き合えていないかを思い知った。注釈として各色街の歴史なども紹介されているが、手に余るこの感覚を何と表現したら良いのだろう。しかしこの活動をもってして、今度も性風俗について執筆しない理由はないのである。
私は色街写真家・紅子とは何者かを知るべく、足掛かりとして各誌の取材記事や彼女が運営するYouTubeチャンネル等を通して調べてみることにした。それは同時に、紅子という人物を通して、性風俗を自分なりに解釈する試みでもあった。
すると、可憐な容姿やほんわかした上品な語り口調では伺いしれない、極めて暗澹とした子供時代を送っていたことを知る。
色街写真家 紅子とは その半生とは
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